Sweet?

 特に理由はなくても、テンションが上がらない日というのはある。
 せっかくの週末なのに、今日は目覚めた時から何かダメな感じがしていた。
 そんな軽い憂鬱気分がハッキリと沈んだのは、朝イチの仕事で小さなミスをして、上司にお小言を食らった時だった。

 それからはもう、さんざん。
 社食でランチに食べようと思った、カニクリームコロッケが人気の日替わり定食は、私の前の人で売り切れ。
 仕方なく注文したカレーを食べていたら、後ろを通った人が肘にぶつかり、スプーンを落とした弾みにブラウスの袖に汚れがベッタリ。
 染み抜きをするのに時間がかかって、少しも休憩を取れないまま昼休みは終了。
 午後は午後で、何があったのかやたらとご機嫌ナナメのお局様に当たり散らされて、こちらまでイライラが伝染。
 こうなったら一刻も早く帰って、何か美味しい物でも作って食べよう。そう自分を励まして仕事を続けているうちに、断り切れない残業を頼まれたのが落ち込みにとどめを刺した。

 体よりも心がヘロヘロになり、ようやく帰途に着いたのは21時を回った頃。
 電車に乗ってすぐ、“あと15分で帰る”と侑にメッセージを送ると、即座に“お疲れさん”と返信が来た。
 それだけで涙ぐみそうになるくらい、私は弱っていた。

 “疲れた。う侑の顔が見たい”
 “嬉しい事言うてくれるやん。スマンけど、飯は先に食うてもうた”
 “ええんよ、遅なったし。ご飯なに?”
 “それは帰ってからのお楽しみや”

 ふ、と頬が緩む。
 同棲を始めた当初、小学生の家庭科レベルだった侑の料理の腕前は、今ではすごく上達した。
 メニューによっては私よりもずっと美味しいし、治君直伝のおにぎりは絶品だ。
 ――ああ、おにぎり食べたいなぁ。今度リクエストしよう。

 侑は朝が弱いから、朝食だけは私が担当しているけれど、夕飯は先に帰宅した方が作る事になっている。
 マンションの狭いキッチンで、大きな体を縮めて料理をしている姿を思い浮かべるだけで、くたびれた心がホワホワとほぐれていくような気がした。



「ただいまー!」
「お帰り。残業、お疲れさんやったなあ」
「侑もお疲れ様でした。晩ご飯、ありがとうね」
 玄関先でキスを交わし、パンプスから解放された足でフローリングの廊下をぺたぺたと歩き、窮屈な通勤用の服をルームウェアに着替えたら、一気に肩の力が抜けた。

 手洗いとうがいを済ませてテーブルに着いてみれば、具だくさんの豚汁、だし巻き玉子、五目ひじき、お浸し、お新香、そしてなんと、おにぎりが並んでいる。
「うわぁ、おにぎりやぁ!めっちゃ食べたかってん!やったー!」
 思わず手を叩くと、「幼稚園児か」と侑にツッコまれた。

 いただきます、と手を合わせて、わざわざ新たに炊いてくれたらしいご飯で作られた、ほかほかのおにぎりを頬張る。ほろりとほぐれるお米が甘い。
「美味しい~!」
「そうか。にはヘタクソ言われるけど、が美味い言うてくれたら充分やな」
「プロと比べられたらかなわんやろ。治君、厳しいなぁ。……ああ~豚汁も美味しい。しみるぅ」
「そら良かった。たくさん食うてや」
「うん!」

 片方が食事を作った時は、もう一方が後片付けをするというのも、二人の間の決め事だ。
 美味しいご飯で癒されて、フンフンと鼻歌まじりで食器を洗う頃には、私はすっかりご機嫌になっていた。
 それから一日の汚れと疲れを風呂で落とし、お気に入りのパジャマに着替えたら、“何かダメ”だった感覚なんて、完全に消え失せていた。



、ちょおこっちぃや」
 髪を乾かしてリビングに戻ると、先に風呂を済ませていた侑が、ソファに座って両手を広げている。
「え?な、なに?」
「ええから、おいで」
 誘われるまま腕の中に収まると、きゅーっと抱きしめられた。
 程よく強い力が気持ちいい。嬉しい。
 でも、なんだってまた急にこんな事を、と疑問に思いながら見上げると、顔中にキスが降って来た。
「わ、ちょ、こそばい」
 たまらず笑いを漏らすと、今度は大きな手でわしゃわしゃと頭を撫でられた。
「今日はしんどかったやろ。よう頑張ったな」

 なぜ。どうして。
 朝からなんとなく落ちていて、だけどそれが決定的になったのは職場での事で、侑には凹んでいたなんて言っていないし、もうすっかり元気にもなったのに。
 侑の言動を不思議に思っているうちに、ポロッと涙が転がり落ちた。
「えっ、あれっ?なんで!?」
「よしよし、ええ子や」
 せっかく目元を拭ってくれたのに、栓が抜けたみたいに涙が次々こぼれて来る。
「ごめん、なんでやろ……止まらへん……ごめん」
「謝らんでええ。なんや今日は朝から元気なかったから、気になっとったんや。そしたら残業や言うし、帰って来た時もえらいゲッソリしとったし」

 あやすようにぽんぽんと背中を叩かれて、合間には優しい優しいキスをされて、私は本当に馬鹿な子供になってしまったみたいに、侑の胸で泣いた。
 ――こんなに泣くほど、私つらかったんかなぁ。
 自覚は全くなかった。単に、今日はダメな日なんだと思っていた。

「ごめんね」
「ええて。……はな、ストレス発散するんがヘタクソやねん。我慢しとる事、自分で気付いてへんやろ。いっつもギリギリまでニコニコしよってからに」
「そうなん?」
「せやで。まぁ、今回はタイミング悪かったわなぁ。俺も遠征続きで留守しとったから、そろそろアカンな笑かしたろか、ってフォロー出来ひんかった」

 じゃあ、侑は。
 私がこんな風に破裂してしまわないように、いつも気遣ってくれていたのか。
 そんな事、ちっとも気付かなかった。
「なんやのそれ……イケメンすぎやん」
「フッフ。どや、惚れ直したか?」
「うん。……好き。……大好き」
「知っとる」
「……私ばっかり甘えて、ごめんなさい」
 手渡されたティッシュで鼻をかみながら謝ると、侑は笑った。
「そうでもないで。俺もに甘えとるやろ」
「どこが」

「朝とか」
 確かに、侑の寝起きの悪さには毎日手を焼いているけれど。
「そんなん、全然や」
「遠征帰りもやな」
 確かに、延々と膝枕でゴロゴロされたり、ベッドに閉じ込められたりするけれど。
「それも、どうって事あらへんよ」
「ほんなら、俺もどうって事あらへん。お互い様でええやんな?」
「あかん……私の彼氏、ほんまにかっこエエわ……」
「なんや、今頃気付いたんか」
「いや、前から」
「せやろ~?」



 ぶふ、と噴き出して、ぎゅうぎゅう抱きしめ合って笑って、何度もキスをした。
「めっちゃ元気出た。侑、ありがとう」
「気にせんといて。お礼はたっぷり、体で払って貰うよって」
「どこのスケベオヤジやねん!引くわ」
「嘘やん、こんなイケメンやのに?」

 にやりと笑った侑にひょいと抱え上げられ、ベッドルームに運ばれていく。
 なんて幸せなんだろう。
 侑が居てくれる事が。
 侑が愛してくれている事が。

 好き、ともう一度耳元で囁くと、俺も好きやで、と甘い声が響いた。

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