雨音ノイズ

 しまった、失敗した。
 ざあっと音を立てて降り始めた雨を受けて、真っ先にそう思った。
 やっぱり友達の言う通りに、傘を借りて帰るべきだった。今日は一日晴れていたから、完全に油断していた。予報だって、晴れのち曇りのはずだったのに。
 彼女の家まで戻ろうか?
 このまま走った方が近いか?
 わずかな逡巡の後、私はバス停めざして駆け出した。その間にも雨はどんどん勢いを増して行き、あっという間に土砂降りへと変わった。

「ああ~、行ってもうた……」
 思わず漏れた独り言と共に、タッチの差で走り去ったバスを見送って、時刻表を確認した。次のバスが来るまで、20分くらい。
 急いで待合所の庇の下に潜り込み、全身の濡れ具合を確かめる。必死に走ったおかげで、そこまでひどくはなさそうだ。

 これを買って本当に良かったと思いながら、私はスポーツタオルをショッパーから取り出した。
 お気に入りの店で服を買うついでに手に取ったそれは、ピンクとグレーのコンビネーションが気に入った一枚と、予備としてわかりやすく色違いにしたブルーと水色の物が一枚。

 しっかりした厚手だから、一枚あれば足りそうだ。ブルーの方をショッパーにしまい直して、まずは髪から水滴を拭き取っていく。
 ジメジメと湿っぽくなってしまった服も着替えたいところだけれど、いくら急な大雨で人通りが途絶えているとはいえ、外で着替えるほど無謀な神経は持ち合わせていない。
 我慢して顔、手、腕、脚と順に拭いて、いくらかサッパリした心持ちになったところで、誰かが凄い勢いで待合所に飛び込んで来た。

 ビクッとして振り向いた先にいたのは、見覚えがあるなんてもんじゃない人物だった。
 ――ミヤアツム。
 思わず口に出そうになった名前を、ごくりと呑み込む。
 相手は学校一の有名人で、こっちはその他大勢。知っているのは私の方だけで、宮君とはクラスが一緒になった事もない。向こうは私の顔すら知らないだろう。

 チラチラと様子を窺っている私の横で、宮君は首に掛けていたびしょ濡れのタオルを絞った。
 Tシャツに短パン、ショートソックスにジョギングシューズという出で立ち。
 今はテスト前で部活禁止だから、自主トレでランニングでもしていたのだろうか。気の毒な事に、全身濡れ鼠になっている。
 ――どっから走って来たんやろ。
 そんな事をぼんやりと思いながら、そろりと目を逸らして前を向きかけたところで、私はハッとした。
 ――せや、タオルもう一枚あるんやった。



「あのっ、宮君!良かったらこれ使うて!」
 雨音に負けないように声を張り上げ、ブルーのタオルを差し出しながらそう言うと、宮君は雫がしたたり落ちている前髪をかき上げ、大きな目を丸くして私を見下ろした。
「え?あ?……えーと……スマン、誰やっけ?」
 予想通りのリアクションだ。
 私は会釈をしてから名乗った。
「稲荷崎高校、2年6組のです」
「稲高生か!どーもどーも」

 同じ学校だと知って安心したらしい宮君に、私はもう一度タオルを勧めた。
「これ、新品やから安心して使うてええよ」
「おお、ありがとう。助かるわ~。俺のん、ビショビショになってもうて」
 タオルを受け取り、わしゃわしゃと髪やら顔やらを拭いて、宮君はふうっと息を吐いた。
 そういえば、片割れはどうしたのだろう。
 狭い庇の下で黙って並んでいるのも気まずいので、私は再び話し掛けた。

「今日は一人なんやね」
「ああ、うん、せやねん。のアホ、ちょっと足やらかしよって」
「え、大丈夫なん?月末にはインターハイやん」
 強豪である稲高バレー部は、大会ではいつも優秀な戦績を上げている。場合によっては全校応援になるから、私のような帰宅部でも大会の大まかな日程は把握している。
「余裕余裕。ちょこっと捻っただけや。テスト明けには普通に練習も出来るわ」
「そう。大した事なくて良かったね」
「まあなぁ、あんなアホでも一応スタメンやからな」
 きつい言葉とは裏腹に、宮君の目は優しく細められていた。

「いきなり降って来たよねえ」
 ざんざんと雨を落とす空を見ながらそう言うと、宮君は「ほんまやで」と腹立しげに答えた。
「いっちょ気合入れて走ったろ思たんに、エライ目にうた」
「私も油断してたら降られてしもて。タオルうたばっかりで良かった」
「買い物でも行っとったん?」
「うん。せっかくの晴れ間やったし、テスト勉強の息抜きに」
「ほぉん、スゴイな。息抜きせなアカンほど真面目に勉強しとるんや」
「……スイマセン見栄張りました」
 ぶは、と宮君が噴き出した。
「正直やな、えーと、サン」
「ええまぁ、そこそこ正直に生きてます」
「ははは、そこそこかい」
 声を上げて笑う宮君を見ていると、不思議な気分になった。
 ついさっきまでは有名人と無名の私、だったのに、今はこんなふうにお喋りしているなんて。

 でもそうか、そうだよな、と私の頭は忙しく回り始めた。
 宮兄弟は雑誌に載ったりテレビに出たりしていて、名前も顔も売れていて、近在では知らない人なんていなくて、毎日のように誰かから告白されていて。
 そんな二人は、私のような一般人とは違う、別世界、別次元の住人なんだと思っていた。
 眺める事は出来ても決して触れる事はない、透明な壁の向こう側にいる、そういう存在。
 けれど、今目の前にいる宮君は私と同じ高校二年生の、雨に降られたらびしょ濡れになって鬱陶しそうにする、面白いと感じれば笑いもする、ごく普通の人だった。
 当たり前の、本当に当たり前のそんな事を、私は今初めて知ったのだ。

 そうして宮君への認識を新たにした途端、勝手に無意味な線引きをしていた自分が猛烈に恥ずかしくなった。
 スクールカーストがどうの、なんて下らない考えに囚われた事はこれまで一度もなかったけれど、逆差別とでも言うような意識を宮兄弟に対して持っていたのは紛れもない事実だ。
 自分の中にこんな一面があったなんて。
 何が別世界だ、別次元だ、壁の向こう側だ。
 それは、卑屈の裏に隠れた傲慢に他ならない。
 いじけた目で、見上げているつもりが見下していた。こんな自分、知りたくなかった。大ショックだ。
 いや、自覚出来たのは良い事なのだろう。体であれ心であれ悪い部分があったなら、まずそこに気付かない事には、なおす事だってかなわない。
 けっこうな衝撃を受けて呆然としている私の目に、屈託のない宮君の笑顔が眩しく映った。
 ――なんて無邪気に笑う人なんやろか。



「……ごめんなさい」
 心の中だけで、そう呟いたつもりだったのに。
「へ?」
 キョトンとした宮君の顔を見て、私は「げっ」と自分の口を押さえた。
「声に出てもうた!……いやあの、その、なんて言うか、ちょっと、反省と言うか!」
「反省?俺に?」
「いや、ちゃう、けど、ちゃうくなくて、あの、」
 顔から火が出そうになりつつも、これはごまかしきれないと諦めて、「実は」と説明をしたら、宮君はまた笑った。
「ほんまに正直やなぁ、さん」
「笑わんといて。これは馬鹿が付く方の正直やわ」
「ええやん、オモロいで」

 くっくと肩を揺らす宮君の表情は、相変わらず無邪気だ。狙った訳じゃないのにウケてしまった。さっきとは別な意味で恥ずかしい。
 いたたまれない気持ちになっているうちに、遠くから近付いて来るバスが見えた。
 それが目に入った瞬間浮かんだのは、惜しいという気持ち。
 惜しい。もう少し、もう少しだけ。

「あっ、バスだ。……ほな、タオル返して貰おかな」
「いやいや、ちゃんと洗って返すし。6組やったな」
「うん。ってええねん、私も濡れたもんあるし、一緒に洗うから」
「アカンて。俺もそこまで非常識やないで」
「でも」
「ああ、俺みたいな悪目立ちする奴が、学校で近付くんは迷惑か?」
「なっ!?な、何言うとん!迷惑やなんて、そんな事あらへん!」

 全力の否定と共にガバッと顔を上げたら、宮君は体を折り曲げて爆笑した。
 やられた。今の発言、わざとだ。悪目立ちで迷惑、だなんて。
 逆差別してゴメンナサイ、な私の心理を逆手に取られた。
 ――ええ性格しとるやないの、ミヤアツム。

 ああ、バスが来る。来てしまう。
 もっと話していたいのに。
 もっと一緒にいたいのに。

「あーた。バス、来たな。俺はもうちょい雨宿りしてくわ。空、明るなってきたし」
「うん。風邪引かんようにね」
「おん、タオルありがとう。ちゃんと返しに行くからな」
「うん。いつでもええよ」



 来なくてもいいバスが来て、乗り込んで。
 名残惜しく振り向いた先で、宮君が手を振った。
 また学校でな、と。
 そうだ、また会えるんだ。
 学校一の有名人で、だけど普通の男の子の、からからとよく笑う宮君に。

 すぐそこにある夏の予感と、もう一つの予感。
 自然に頬が緩むのを感じながら、私も手を振り返した。

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