ピリオドの向こう側

 俺のバレーが終わった。
 その瞬間、泣き出したのは侑の方だった。
 まるで俺の分までそうしているかのように、侑はぼろぼろと大粒の涙をこぼして、唇を震わせ、声を上げて泣いていた。
 しがみ付いてきた侑の肩越しに、観客席にいる両親の姿が見えた。



 数日ぶりに自宅に戻った俺と侑を出迎えたのは、昨日のうちに一足先に帰宅して、大量の料理を作って待っていた母親と、特上寿司奮発したったぞ、と得意げな顔をしている父親だった。
 誕生日かクリスマスかと見紛うほどのご馳走に、俺たちは揃って歓声を上げた。
 張り合うようにしてそれらを口に運びつつ、俺と侑は移動のバスの中で盛り上がったくだらない雑談や、宿泊先のホテルでのちょっとした笑い話やらを食卓の話題にした。
 それからもちろん、試合の事も。
 速攻が気持ちよく決まったとか、あの時のサーブは惜しかったとか。
 大会後にいつもする話を、いつも通りに。

 やがて並んだ皿が全て空になり、食後のお茶を出してくれた母親が、俺と侑の頭を交互にポンポンと叩きながら言った。
「よう頑張ったね。……それから治、今までお疲れ様でした」
 ひぅ、と妙な音を漏らして、侑がまた泣いた。
 俺は「うん」とだけ答えて、ぐしぐしと目元を擦っている侑をよそに熱いお茶を啜った。



 飯の後は侑と入れ替わりに風呂に入って、久しぶりに一人の入浴を楽しんだ。
 ホテルの大浴場は広くて好きだけれど、やはり家の風呂が一番くつろげる。
 狭い浴槽に浸かりながら、気持ちええなぁと細めた目の端から、するりと何かが滑った。

「……?」

 なんだ、と伸ばした指先に、次々に触れる生温かい物。

「え?……は?……や、ちょ、なん……」

 なぜ今頃になって、なぜこんなに突然。
 咽喉が痙攣して、嗚咽が漏れる。
 息が出来ない。胸が苦しい。
 津波のごとく押し寄せて来た、遅ればせもいいところの実感に呑み込まれ、もみくちゃにされながら、固く握った拳を口元に押し当てて体を縮めると、塩辛い味が広がった。

 ああ、そうなんだ。
 終わったんだ。
 俺はもう、コートに立つ事はない。
 敗北の悔しさも、勝利の興奮も、侑のトスを打つ事も、あの8秒間も、もう二度と。

「っ……ふ……っひぐっ……っう」

 ずっと走り続けて来た。
 侑と競いながら、ボールを追って来た。
 それは楽しくて、時につらくて、けれど幸せな時間だった。

 自分で決めた。自分で線を引いた。ここで終わりだ、と。
 後悔はない。やるだけやったと言い切れる。
 なのに、別れる事がこんなにも痛い。
 心から好きだった。愛していた。バレーは間違いなく、俺の一部だった。



 バシャバシャと冷水で繰り返し顔を洗って鏡を見ると、みっともなく赤い目がこっちを見返していた。
 に会いたい、と唐突に思った。
 俺がバレーを追い掛けている間、ろくにデートも出来なかったのに、『好きな事をやっとる治が好きやねん』といつも笑顔で応援してくれていたに。

 この先も、と過ごせる時間は今までと大差ないだろう。
 調理師免許の取得目的で選んだ専門学校は2年制だ。高校での3年間より、1年も短い。
 油断していたら、おそらくあっという間に終わってしまう。一日たりとも無駄に出来ない。
 開店資金のためにバイトもしたいし、資格を取った後はどこかの店で修行をしなくてはならないし、経営の勉強も必須だし、覚えるべき事もやるべき事も山のようにある。
 
 その話をした時も、はニコニコしていた。治はやっぱりカッコええな、すごいな、と言って。
『私には応援しか出来ひんけど、これからも傍におってもええ?』
 当たり前や、と答えた時も、嬉しそうに笑っていた。

 将来の夢も、も、俺にとっては等しく大切だ。
 どちらが、なんて比べる事は出来ない。“大切”の次元が全く異なっているからだ。
 はそれをちゃんとわかってくれている。

 ――バレーと私とどっちが大事なん?
 かつての彼女たちが、決まって口にした問い掛け。
 一度もそう感じた事がないのか、と訊ねたら、は『えぇ?』と首を傾げた。
『感じるも何も、その二つは比べる対象とちゃうやん』
 その言葉が、どれほど嬉しかったか。

 明日から俺は、ボールに代わって夢を追い始める。
 バレーと同じく、やれるだけの事は全てやる。
 に対しても、それは変わらない。
 会える機会がどれほど少なくても、その中で精一杯を尽くしたい。
 いつ何があっても、後悔したくないから。



 落ち着きを取り戻して風呂から出て、今度は洗面台の鏡を覗き込んでみた。
 目の赤みは消えていないものの、気分はスッキリしている。
 着替え用のスエットの上に置いていたスマホを手にして、俺はにメッセージを送った。

 会いたい、とただ一言。

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