かわいいひと

 ただいまぁ、と抑えた声で告げながら、一日の労働でくたびれた足をスニーカーから引っこ抜いて框に腰を下ろし、暫し奥の様子を窺ってみた。
 やはり、反応はない。

 が熱を出したのは、昨夜の事だ。
 今朝になっても熱は下がるどころか上がっていて、病院に行こうと提案したのだが、は『こんなん、寝てれば治る』と笑って取り合わなかった。



 居間の照明を点けてから洗面所へ行くと、洗濯物が山積みになっていた。
 シーツ、タオルケット、カバー類、たくさんのTシャツ、パジャマ、下着。
 それらはどれもじっとりと重く湿っていて、汗だくのがフラフラしつつも懸命に交換する様子が目に浮かぶようで、仕事の都合でどうしようもなかったとは言え、傍にいて世話をしてやれなかった事が悔やまれた。

 洗濯機のスイッチを入れ、うがいと手洗いを済ませてからキッチンへ入ってみれば、そこは綺麗に片付いている。

 ――あいつ、そのままにしとけ言うたのに、水仕事なんぞしよって。

 思わず眉間に皺が寄ったが、はそういう性分だ。帰宅後の俺に余分な負担をかけたくないと考えての事だろう。

 ――体調が悪い時くらい甘えとったらええのに。

 はいつも、頑張りすぎるのだ。
 それがの優しさから来る事だとわかってはいるけれど、もう少し力を抜いて頼って欲しいと思うのは俺の我儘なのだろうか。

 ――やっぱり、年下の俺じゃ頼りにならんて思われとるんかな。

 だとしたら悔しすぎる。年齢だけはどうする事も出来やしない。
 クツクツとお粥を煮ながらそんな事を考えていると、寝室のドアが開いて、がもそりと顔を出した。

「おかえり、治。お疲れ様」
 眠っていたのか、それとも咽喉までやられたのか、その声は掠れ気味だ。
「おう、ただいま。スマン、起こしてしもた?」
「ちゃうちゃう、お粥さんのええ匂いしてな、お腹空いて目が覚めてん」
「おぉ、食欲あるんやな。ええこっちゃ」
「うん。お昼のお粥さんもペロリといただきました。梅干しも美味しかったわぁ。ありがとう」
「それはええけど、片付けはするなて言うたやろがい」
 じろりと見遣ると、はへらっと笑った。
「寝てばっかりいたら、体おかしなってまうわ。ちょっとぐらい働かせてやぁ。そのかわり、洗濯物はほったらかしやで?」
「当たり前や。洗濯までしとったらマジで怒っとるわ。休む時は休まなアカン。熱、下がらへんぞ」
「はい。ごめんなさい」
 素直に頭を下げられては、笑って許すしかない。
 すぐ出来るからあったかくして待っとけや、と言い置いて、俺は店から持ち帰った塩鮭をグリルに入れた。



 が薬を飲んで大人しくベッドに入ったのを見届けた後は、手早く洗い物を片付けた。
 その頃には脱水が終わっていた洗濯物も、ベランダに干した。
 今夜は店で晩飯を済ませて来たから、あとは風呂に入って寝るだけだ。

 一日の締めくくりはやっぱり風呂やなぁ、と全身を包む湯の心地良さに頬を緩めていると、棚に並んでいる二種類のシャンプーが目に付いた。
 俺のはそこらへんのドラッグストアで売っている安物。
 の物は同じ店で売ってはいても、値段は倍以上違う高級品。一緒に買った時には『なんでこんな高いん!?』と驚いた。
 髪と地肌と、ついでに地球にも優しい成分が入っとるんやで、と聞かされても、よくわからなかった。

 俺は着る物にも特にこだわりはなくて、値段よりもパッと見た感じで適当に選ぶ。
 でもは、素材や縫製をしっかり吟味して、良い物を長く着るタイプ。
『10代の時は安物を着とっても可愛いねんけど、年齢を重ねていくとな、みすぼらしゅう見えるようになってまうんやて。30過ぎてから慌てるより、20代のうちからええモン見る目を養っとき、て母親に言われてん』
 の母親は、バカ高いブランド物には目もくれないけれど、良い品物を見分ける目は確かなのだそうだ。
 俺も何度か会った事があるが、年齢相応かつ上品な服装がよく似合っていて、しっとりと落ち着いた雰囲気の人だった。
『私もな、ああいうふうに歳を取りたいねん。いいお手本が身近にいて、恵まれとるなぁて思うんよ』
 今のところ、はその言葉通り、着々と憧れの母親に近付いているように見える。

 ――俺も、ちょっとは服装やら考えた方がええんかなぁ。

 の横にいて、恥ずかしくない男でありたい。
 かと言って、決して今の自分に自信がない訳ではない。
 夢を実現出来たばかりか、小さいながら自分の店を持ち、ありがたい事に商売も順調そのもの。
 それは俺の誇りで、魂で、先の先まで極めると誓った生涯の道だ。
 ただ、の事となると、話はまた全然違うと言うか、なんと言うか。

***

 と出会ったのは、店でだった。
 閉店間際に、飛び込むようにして入って来たのをよく覚えている。
 ピシッと着こなしたパンツスーツ、ピカピカのパンプス、丁寧に施された薄化粧(ナチュラルメイクほど手間がかかるのだと教えてくれたのは、高校時代の元カノだ)、手入れが行き届いた艶やかな髪と、控えめな色のネイルで彩られた清潔な指先。
 えらいキチンとしてる人やなぁ、なんや北さんに雰囲気が似とるなぁ、カッコええお姉さんやなぁ、というのが第一印象。

『あの、食事まだ出来ますか?』
『大丈夫ですよ。どうぞゆっくり食べてってください』

 俺がカウンターの椅子を勧めると、はお辞儀をしてから席に着いた。
 髪が揺れた拍子に漂った甘い香りに、少しだけ胸が騒めいた。

『友達からむっちゃ美味しいって聞いてて、ずっと来たかったんですけど、残業続きでなかなか来られへんかって……やっと間に合ったわぁ』
 おしぼりで手を拭きながらニコリと笑った、その口元から綺麗な歯が覗いた。
『そうだったんですか。ありがとうございます』
 いそいそとメニューを手にしたは、楽し気に目を走らせるうち、ハッとしたように顔を上げた。
『売り切れも多いって聞きましたけど、何が残ってますか?』
『はい、えーと……』

 茄子とすき焼き、ピリ辛きゅうり。おにぎり三種の他は、味噌汁におしんこと出汁巻き。
 きらきらと瞳を輝かせてそれらを眺めていたは、おもむろにバッグから取り出したヘアゴムで髪を束ねると、『いただきます』と手を合わせた。

『……んんん……美味しいーっ!』
 とろけそうな顔でおにぎりを頬張る、客のそんな表情を見られるのは俺にとって至福のひと時だ。
『そら良かった。時間は気にせんでええんで、ほんまゆっくりしてってくださいね。ちょっと失礼して、暖簾だけ下ろして来ますよって』
『はい!ありがとうございます!お言葉に甘えてじっくり味わわせてもらいます』

 ぺこりとまたお辞儀をしたに会釈を返してから外に出て、暖簾と看板を手に俺は店内へと戻った。
 そして何気なくの後ろ姿に目を遣った時、“それ”が見えた。

 ――なんや?アレ。

 結ばれた髪の間から、ピョコンと飛び出しているピンク色の何か。
 暖簾と看板を所定の位置に片付け、カウンターへと近付いていく間に、その正体がわかった。

『あのー……』
『はい?』
 二個目のおにぎりに手を伸ばしていたが振り向いた。
『上着の首ンとこ、付いてますよ。……クリーニングのタグ』
『は?……え?……ええー!?』
 大慌てでおにぎりを皿に置いて立ち上がったは、上着を脱いでタグの存在を確かめると、『うわぁ』と笑い交じりの声を上げた。
『最悪や!一日中コレで仕事しとった!アホ丸出しやん!!』
 ブチッとタグを引きちぎり、頭を抱えながら笑い崩れたに釣られて、たまらず俺も噴き出した。
『ははは。いやぁ、髪結わえとらんと見えへんし、しゃーないですよ』
『せやけど、誰か一人くらいツッコんで欲しかったわぁ~』

 一頻り笑った後で、『教えてくれてありがとう』と恥ずかしそうにお礼を言われた、その瞬間に俺はに落ちた。
 隙なんて少しもなさそうな女性が見せた、思いがけないほど柔らかな笑顔に。


 美味しかった、また絶対来ます、と言って帰って行ったは、それから本当に常連になってくれて、三日に一度は晩飯を食いに来た。
 初日同様、閉店ギリギリに駆け込んで来る事も多くて、俺にとってはそれこそがラッキーデーになった。
 遠慮する彼女を、最初は家の近くまで送り、次第に玄関先まで送るようになり、その頃には連絡先も交換して、次には休みの日に会うようになり。

 好きや、俺と付きうてください、と告げたのは、出会ってから二カ月後。
 だが、すんなりとはいかなかった。
『気持ちは嬉しいけど……私な、弟がおるんよ。せやから、年下の人はなんや弟みたいにしか思われへんの。ごめんなさい』
『嫌や』
『え、いやあの、嫌やて言われても』
『もうちょいチャンスくれや。俺は確かに年下やけど、弟やない。せめてあと半年、いや、三カ月でええわ。時間をくれ。それでも男と思われへんのやったら、その時はスッパリ諦める。ただの店主とお客さんに戻るて、約束する』
『……三カ月、無駄にしてまうかもしれんよ?』
『かまへん』
『宮さん、モテるやろ。なんぼでも女の子おるやん』
『俺はさんに惚れとんねん。他の女なんぞいらん』
『……わぁ……今のはちょっと、キたわ……』
『せやろ?この調子でガンガン口説くよって、三カ月だけは覚悟してな?』
『は、はい』

 それからは、宣言通り押して押して押しまくって、約束の期日が来ないうちに、は『アカンわ、落とされてもうた』と俺の大好きなあの笑顔で言ってくれた。
 そして、一緒に暮らし始めたのは出会いから半年後の事。

***

 とりあえずは、これから服を買う時はに見立ててもらって、少しずつオトナのオシャレとやらを勉強しようか、などと思いつつ風呂から上がり、歯磨きを済ませて寝室に行くと、がクローゼットの前でボンヤリ突っ立っていた。

「どしたん?気分でも悪いん?」
「あ、治……どないしょう、着替えがもうあらへん……」
「なんや、そんなん俺のん着とったらええやん」
「ん……ごめんね。借りる」
 怠そうな様子のにパジャマ代わりにしている古いTシャツを手渡すと、彼女はそれをもぞもぞと頭から被った、のだが。

「アララ……」
「あ~……」
「まぁ、わかっとったけど……デカいな」
「せやなぁ……中で体が泳いでまうわ」

 ――なんやコレ!?めっちゃかわええんやけど!?……いや、アカンアカン。

「あかんわ。そんなん着とったら風邪に悪そうや。コンビニで小さいのうて来るな」
 上着を取ろうとした俺の手を、が引っ張って止めた。
「ええよ、これで」
「せやけど熱が」
 ふふ、とが笑った。なぜか嬉しそうな顔をしている。
「何とんねん。アカンて。うて来るから手ぇ離しぃ」
「あんな、私な」
 クスクスと楽しそうな笑い声。
 なんやコイツ、熱で頭ボケとるんか、と見下ろしていると、ほんわりピンク色の頬をしたがきゅっと抱き付いてきた。

「こういうん、いっぺんやってみたかってん。彼シャツってやつ、なぁ」
 グリグリと頭を擦り付けながら、甘えた口調ではそう言った。
 これは本当に、熱のせいで頭が緩んでいるのかもしれない。普段の、キビキビと歯切れよく話すとは別人のようだ。
「っ……おま、なんっ……」
「私みたいな不愛想な女がやっても、似合わへんかなぁ?……なぁー?おかしい?なぁー?」
「おかしいワケあるか!めちゃめちゃ可愛いっちゅうねん!それに第一、お前は別に不愛想やないやろが」
「ほんまぁ?……へへ……嬉しいー。でもなぁ、私なぁ、学生ン時も職場でも、ずーっと不愛想や不愛想やて言われるんよ。……けど、しゃーないよねぇ?私が愛想良うするんは、治だけやねんから」
「……アカン」

 俺のその一言で、がクスクスと笑い出した。
「ほんまや、アカンねぇ。治の治くんが当たっとる」
「誰のせいやねん!……お前ほんま……こういう事はお前が元気な時にしてくれや!生殺しやんけ!」
「うん、わかった」
「……へ?」
「風邪治っても、治のシャツ貸したってな」
 胸の中を覗き込むと、は恥ずかしそうな、けれど真面目な顔をしていた。
「そ……そんなん、いつでも好きな時に着たらええやん……」
「ありがとう。嬉しい」
 にこ、と笑った目は熱で潤んでいて、それでいて心から嬉しそうで。
「~~~~~~~~っもう、アカンて!!お前もう、ホンマもう、寝てまえ!」



 目いっぱいの力で抱きしめてから、俺は勢いを付けてを抱き上げ、ベッドにそっと横たわらせた。
 程なくして聞こえて来た静かな寝息に、俺のため息が重なった。

 ――かなわんなぁ、コイツには。

 最初も、今も、これからも、俺は何度もに落ちるんだろう。
 俺より年上で、大人で、しっかり者で、でも時折たまらなく可愛いに。

 好きやで、と囁くと、枕の端に乗っていた髪の一房が、頷くようにはらりと滑って落ちた。

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