顔立ちは特別目立つ方ではないが、涼し気な凛とした眼差しが印象深い人だった。
最初にその存在に気付いたのは、高校に入学して間もない頃。
朝練に向かうバスの中、何の気なしに見遣った後部座席の一つに、稲高の制服を纏って彼女は座っていた。
――妙に目立つ人やな。むっちゃ美人っちゅう訳やないのに。
少々失礼な事を思った途端、この手の事には異様に目ざとい侑が、ニヤニヤしながら耳元で『すけべ』と囁いて来た。
誰がやねんどあほ、お前やどあほ、といつものやり取りをしながら小突き合っている間も、俺はその人に釘付けだった。
見過ぎ、と今度はもっともな事を言われて、わかっとるわ、と返して視線を外そうとしたタイミングで、彼女がこちらを向いた。
そしてクスリと、花が綻ぶように微笑った。
それはほんのひと時の事だったけれど、俺ばかりか侑までもが固まってしまうほど、艶やかな一瞬の変化だった。
その翌日も彼女は同じ席に座って、同じように窓の外を見ていた。
俺と侑も含めた周りの乗客のほとんどがしている、スマホや携帯を忙しなくいじるような事は一切なかった。
そうして半月も過ぎると、彼女は毎朝繰り返される日常の風景の中の一つになった。
小さな変化が起こったのは、俺たちにとっては憂鬱でしかないテスト期間が始まった日の事だ。
いつも通り途中から一緒になったアラン君を交えた三人で順にバスを降りたところで、反対側の路線を利用している北さんと出くわした。
北は普段は朝一番で部室に到着しとるから、テスト期間でもない限り、通学路で顔を合わせる事はないんや、レアやで、というアラン君の説明を、俺は途中から半分聞いていなかった。
彼女が、俺の目の前で北さんと親しげに話していたから。
二人の会話の内容から、俺は様々な情報を拾い上げた。
彼女はさん、テニス部所属である事。
北さんとは去年クラスが一緒で、今年は委員会が同じな事。
彼氏が、北さんと同じクラスにいる事。
梅雨入り宣言がニュースで流れた頃、告白してきた女子と俺が付き合い始めた時、侑はたいそう驚いていた。
治、先輩が好きちゃうん?と言われて、俺はあっさり肯定した。
「好きやで」
「ほんならなんで他の女と付き合うんや。体目当てか?」
「お前と一緒にすんなや」
「なんやねんいきなり!失礼な!」
「事実やろがい。今の彼女と付き合い始めた理由、俺は忘れてへんぞ。むっちゃええ乳しとってなぁー、言うとったくせに」
「うっさいわ!ほんなら治は彼女と清い関係貫くんやろな!?」
「あほか。健全な男子高校生に何言うてんねん」
「ほれ見い!やる気マンマンやんけ!何が一緒にすんなじゃ!」
「俺はお前みたいに初デートで押し倒すとかせぇへん!」
「相手がやりがたっとるなら別にええやろが!」
しん、と間が空いた。それは、うん。
「……そら……しゃーないわな……」
「せやろ。据え膳食わぬは男の恥っちゅうヤツや。お前かてやるやろ」
「うん、やる」
「せやろ~?」
ドヤ顔をしていた侑は、それは置いといてやな、と珍しく真顔を見せた。
「先輩に彼氏がおるから、諦めるん?」
「いや。そういう訳ちゃう」
「なら、どういうこっちゃ」
「んー……」
この気持ちを、なんと呼べばいいのか。
先輩の事は侑に言われるまでもなく、確かに好きだ。
けれど、恋とは違う気がする。
彼氏がいるから諦める、のではなくて、彼氏がいてもいい、と思っている。
奪いたい、とは思わない。
先輩が彼氏に抱かれるところを想像しても、嫉妬は湧いて来ない。
好きなのに、なぜ。
ぼんやりとした思考をそのまま口にしたら、言下に否定された。
「えー!治おかしい!それ好きちゃうやん!」
「うん、かもしらんなぁ。ただの憧れなんかな」
「アイドルか!いや、それにしてもやな、例えばやで?推しとるアイドルに熱愛報道とか出たら、相手の男羨ましいとか腹立つとか、なんかあるやろそういうん!そんなんもあらへんておかしいやん!」
ギャンギャンと主張する侑に、俺は他人事のように「せやな」と頷いた。
気の抜けた俺のリアクションがつまらなかったのか、侑はムスッと膨れっ面をして、「風呂入って来る」と言い捨てて部屋を出て行った。
静かになった部屋で、俺は先程の思考を再びこねくり回してみた。
恋じゃない。嫉妬も感じない。
それなのに、好きだという気持ちだけが場違いに鮮やかだ。
これは、何なのだろう。
自分の気持ちなのにずいぶんと不透明だ。
微かに不快感を覚えたその時、ばらばらと音がした。雨だ。
窓を開けると湿った匂いと共に、どんよりした夜気が流れ込んで来た。
勢いよく降り出した雨は程なくして弱まり、白く薄く闇を裂いている。
軒先からぽたぽたと滴る雫を眺めていたら、ああこれだ、と唐突に思った。
俺の想いはこの雫のように、先輩に会うたび心に滴り落ちている。そうして出来た小さな水溜まりは、どこまで広く深くなるのか。
あるいは、そうはならずにどこへともなく消えていくのか。
今はまだ嫉妬すら内包し得ないほど浅く小さく、そのくせひどくはっきりと存在している自分の中の水溜まりを、俺は心の奥深いところへそうっと仕舞い込んだ。
***
翌年、北さんが主将になり、先輩は女テニの副主将になった。夏、俺たちはIHの決勝で負け、北さんたちの最後の舞台となった春高では、優勝候補の一角と評されていながら、まさかの初戦敗退を喫した。
この一年間、俺は何度か彼女を作って、別れて。
先輩もいつの間にか去年とは別な彼氏が出来ていて、そして別れていた。
俺の水溜まりは変わらず存在していて、少しずつ少しずつ領土を広げていたものの、ついに水源そのものが断たれる日がやって来た。
卒業式は良く晴れていて、春の陽射しが朝から眩しかった。
北さん、大耳さん、赤木さん、アラン君、そして三年間ベンチに入る事すら叶わずとも、ずっと頑張り続けた人たち。
三年生の久しぶりの登校がそのまま別れの日というのは、わかっていても寂しくて、込み上げて来るものがあって、けれど「後は頼むで」と言われると心身共に引き締まる思いで、後輩としては背筋を伸ばすしかなかった。
あちこちで記念撮影が盛んに行われ始めると、先輩がパタパタと駆け寄って来た。
北さんと先輩が写真を撮っている間に、他の先輩方もそれぞれの友人に引っ張られて、そこかしこで笑顔を作っている。
俺と侑も女子の先輩に囲まれて、取材で鍛えた愛想笑いをカメラに向けたり、ポーズを取らされたりした。
そして、不意の空白のような、狙いすました隙間のような、ずっと以前からの約束だったような、そのひと時が訪れた。
なぜだかはわからない。おそらくは単なる偶然の産物だろう。
ふと気付くと、俺と先輩の二人だけが取り残されていた。
その事を意識するよりも先に、俺は言葉を発していた。
「先輩、一緒に写真ええですか?」
振り向いた彼女は、バスの中で初めて見せた時と同じ、柔らかな微笑を浮かべて頷いた。
――ああ、溢れる。
小さな水溜まりだと思っていたものが、いつしかなみなみとした湖になっていた事を俺は今更に知った。
馬鹿々々しいほど、今更。
シャッターを切る合間に、さらさらと言葉が流れ出た。
「知ってました?俺、先輩の事ずっと見とったんですよ」
俺の肩よりだいぶ低い位置にある、先輩の頭が微かに揺れた。
見えなくてもわかる。彼女は今、笑っている。楽しそうに。
「知っとった?私も宮君のこと、ずっと見とったんよ」
ふは、と俺も笑いを漏らした。
「はい、知ってました」
クスクスと交わす、共犯者の笑い。
知っていた、俺も。
彼女の眼差し、彼女の胸元、彼女の指先。
そこに俺が棲み付いている事を知っていた。俺にとって先輩がそうだったように、最初に存在を意識したその瞬間からずっと、俺は先輩の中に居座っていた。
だから俺は、嫉妬さえも感じずにいられたのだ。
笑いを引っ込めて、代わりに手を伸ばそうとしたその時、うぉーいお前ら、もういい加減解散せぇやー、と遠くから聞こえて来た先生の声が、俺たちの間の流れを堰き止めた。
先輩はその堰の向こう側へと、ピョンと跳ねるように一歩を踏み出した。
「またどこかで会えるとええな、宮君」
「会えますよ、絶対」
確信を持って答えた俺に、先輩は笑って手を振った。
「ほな、その時まで元気でおってな」
先輩が立ち去ると、いつからそこにいたのか、木陰から侑が飛び出して来た。
「お前アホか!あそこで口説かんでいつ口説くねん!」
「覗き見か。趣味ワル」
「戻って来たら隠れなあかん雰囲気やったんやろがい!空気読んだ俺に感謝するトコやぞ!」
「あーハイハイ侑クンありがとぉ」
「棒読み腹立つ!ってそんな事はどうでもええねん!お前の足なら今からでも間に合うやろ、走れ!追え!口説いて来い!」
「いや、今はええわ」
「あほ!今やろ!?今が最大のチャンスやろ!?」
「んー……先輩とはまた絶対会える気ィすんねん」
「なんやねんその根拠のない自信!さっきも本人に言うてるの聞いて、何言うとんねん!ってツッコみそうになったで?」
「まぁ、これで終いになるんやったらそこまでの縁っちゅうこっちゃ」
「わからん。お前がわからん」
渋い顔をする侑をしり目に、俺は目の前の桜の木を見上げた。
薄くぼやけた春の青空を背景に、まだまだ固そうな蕾が枝先に連なっている。
「……花見したいなぁ」
「ハァ?なんやねん急に」
「ええやん、花見。美味いモン食えるし、桜は綺麗やしなぁ」
「言うてオトンもオカンも忙しいて、そんなんもう何年もしてへんやろ」
「せやなぁ。咲いたら行かへん?いつも行っとった川っぷちの公園。部活終わった後に、コンビニでなんか買うてさ」
「ああー、せやなぁ。たまにはええかもしらんなぁ。オカンに言うたら、小遣いくれへんかな?花見用に」
乗り気になった途端に顔つきが明るくなった侑と花見ネタで盛り上がっていると、卒業生とたっぷり別れを惜しんで来たらしい銀と角名、それに後輩たちが集まって来て、最終的にはバレー部全員で花見をやろうという事になった。
意図した事ではなかったけれど、新メンバーでの始動に向けて士気を高めるには良い機会だ。部活をネタにすれば母親も財布の紐を緩めてくれるだろうという下心をたっぷりと含みつつ、俺たちは頷き合ったのだった。
***
結局コーチと監督まで参加する事になり、大人二人が大盤振る舞いをしてくれたおかげで、花見は大いに盛り上がった。さんざん飲み食いして場が緩み始めた頃、俺は小用に立った。
公園の公衆トイレは少し離れた場所にあるのだが、この辺りも桜がずらりと並んでいて、花見客の喧騒が聞こえてくる。
手を洗って外に出ると、上って来た満月が夜桜に美しく映えていて、飯を食う時と同じように、日本人に生まれて良かったなぁと思った。
とろりと生温い春の宵。
青白い月の下、薄桃色の花びらがひらひらと微風に舞う。
風情があるとは、こういう事を言うのだろう。
来て良かった、と思いながらのんびり歩いて行くと、背後で「あ」と小さな声がした。
振り向く前に、声の主を俺はわかっていた。
――ほら。絶対会える思うとった。
先輩。
と、連れらしき同年代の女が二人、そこに立っていた。
舞い散る桜吹雪の中、先輩は困ったような、嬉しそうな、泣き出しそうな顔をしている。
俺と先輩の顔を交互に見遣った女二人は、脇腹を小突き合って、急ぎ足で立ち去って行った。
「やっぱり、また会えたな」
「うん。……けど……」
「けど?」
「ほんまは私、怖かった。……あのまま二度と会われへんかったらて、何度も考えたんよ」
「俺は絶対会える思うとったで」
「なんでそんな自信満々やの」
「簡単や。辛抱しきれんくなったら、大学まで押し掛けたろ思うとったもん」
「えー!絶対会えるて、そういう……っ……宮君、ずるいなぁ」
噴き出して笑い声を上げた先輩に、俺も笑った。
「せやねん。俺、ずっこいねん」
「もう……かなわんわぁ。……私、宮君に呪いを掛けられてもうた気分やったのに」
「呪いて、なんでや」
「だって、どこに行くんでも宮君に会えるかもしれへん思て、いっこも気ぃ抜かれへんくて、コンビニ行くんでも髪も服もお化粧も気合入れとったんやで?」
「まじか」
「マジです」
「今日は先輩も花見?」
「うん、親戚が春休みで遊びに来とって。さっきの、従姉妹」
「そうか。気ぃ遣わせてもうたな」
「今頃めっちゃ酒の肴にされとるわ。ちゃんがものごっついイケメンとただならぬ雰囲気やってん!て」
「ただならぬ雰囲気か。……ほな、ほんまにしたらな損やなぁ」
卒業式の日、伸ばせなかった手を伸ばす。
あの時はまだ、堰き止められたら抑える事が出来た想いを、これからは。
「宮く……」
「治や。宮君は二人おるやろ」
「治君」
「君は余計やな」
「注文が多いなぁ治は!」
くすぐったそうな笑い声が胸の中で響く。
俺も同じように笑う。
「好きや、」
これからは、二人で共有していこう。
今や海ほど広く、深くなった想いを。
もう誰にも渡さない。渡せない。