2年に進級して初めての席替えがあった日。
俺は5時間目の本鈴が間もなく鳴るという頃になってから、電子辞書を忘れた事に気付いた。
大慌てで席を立ち、隣のクラスの治の元へと走り、ブツブツ文句を言われながらも無事に借り物に成功して、再び急ぎ足で自分の教室へと戻った。
着席して安堵の息を吐いたところで視線を感じて顔を上げると、隣の席のがこっちを見て笑っている。
「何笑とんねん」
ムッとしてそう言ったのに、はますます笑みを深くした。
「可愛いなぁ思て」
出た、“カワイイ”
女というのはどうしてこう、なんでもかんでもカワイイと言いたがるのだろう。
ムッ、にイラッ、が加わった。
「はぁ?可愛いてなんやねん。男に言うセリフちゃうやろ」
感情そのままに刺々しい口調で返すと、は「ごめん」と詫びの言葉を口にして、きゅっと口角を引き締めた。
が、次の瞬間には、またこぼれ落ちそうな笑顔になってこう言った。
「間に合って良かったぁ、ホッとしたぁ、って全部顔に出とったんがな、めっちゃ素直な感じで可愛かったんよ。気ぃ悪うせんといてな」
その言葉を耳にした途端、心がすうっと凪いだ。
正確にはの顔を見ているうちに、だ。
「え、顔に出とった?……いやまぁ、確かにその通りやってんけど」
へへ、と笑いながら頭に手をやると、はニコニコしたまま電子辞書を指した。
「それ、治君に借りたんやろ」
「おん。……ってなんで知っとんねん」
「一年の時も、しょっちゅう治君に教科書やら何やら、借りに来とったやん」
そういえば、と俺はそこで思い出した。
「ああー、そうか。は去年治と同クラやったな」
うん、とが頷いたと同時に先生が教室に入って来て、俺たちの会話は終了した。
「なぁ治」
ソファにだらりと座って月刊バリボーを広げていた治は、視線を上げようともせずに「あん?」と生返事をした。
「うちのクラスの、知っとるやろ」
「うん。去年同クラやったからな」
風呂上がりのアイスを冷凍庫から出して、包みを引っぺがしながら隣に腰を下ろすと、治は嫌そうな顔で「ゴミ先にほかせや」と言った。
「後でほかすし」
「言うていつもせぇへんやろが」
「しとるわ」
「してへん」
「って話が進まんわ!ちゃんとほかすて!」
治は諦めたように短い息を吐いて、雑誌をバサリと閉じた。
「……で?がなんなん?」
「いや、可愛いなぁ思て」
「今さら感が凄いな。入学式の日から男はみんな騒いどったぞ」
「知っとるわ。ちゃうねん、なんやイメージが違うたって話やねん」
治の言葉通り、は入学してすぐに学校中の男どもの間で話題になるくらい、容姿に恵まれていた。
顔だけじゃなく、スラリと細いのに出るところはしっかり出て、引っ込むところはキュッと引っ込んでいて、男の目を引かずにはおかない、そういう女だった。
当たり前のように、はよくモテた。
だが、いつからかあまり良くない噂がつきまとうようになった。
――ちょっと可愛いからって調子に乗ってるんちゃうか。
――男なんて全部自分の思い通りになるて、馬鹿にしとる。
この手の噂はまず、同性である女が僻みや妬みから流すものと相場が決まっているが、の場合は違った。と付き合った男たちが話の出どころだったのだ。
つまり、根も葉もないとは言い切れない、という事になる。
実際、俺自身もの彼氏の口から、直接話を聞いた事があった。
それは去年、まだの悪い噂が広まっていなかった頃、同じクラスだったその男が体育の待機時間の雑談中にぽろりと漏らした発言で。
『好きなのは俺ばっかり、って気がしてしゃーないねん。嫌われてはないけど、好かれてる感じもせえへん。この頃はなんやもう、俺の事なんて馬鹿にしとるんちゃうかなとか思えてきて、しんどい』
あない可愛い彼女おるだけでありがたい思わんかいクソが、惚気か死にさらせボケカス、と口々に周りからどやされて、そいつは苦笑いをしていた。
俺も野次った一人だったのだが、数日後にそいつとが別れたと聞いた時に、あれは本心だったのか、と驚いたのを覚えている。
俺はに特別な関心がある訳ではない。
身も蓋もない言い方をすれば一発やりたいと思ってはいるが、それは大抵の男がに対して思っている事だから、特別とは言えない。
俺の中の最優先事項はバレーで、カッコつけでもなんでもなく女なんて二の次だ。
治には軽蔑の極みみたいな目を向けられるけれど、女とは溜まった時にやれればそれでいいと思っているし、そういう相手には不自由していない。
中学の頃には彼女がいた。でも、誰と付き合っても持って3カ月。最初は良くても、結局は面倒くさくなって俺から離れた。
同じパターンを何度か繰り返して、最後の彼女と別れたのが中2の冬。
それ以降、特定の相手を作るのはやめた。それこそが、俺に好意を向けて来る相手への俺なりの誠意だ。
その他の、ただの学友たちは男も女も関係なく、タイミングが合えば雑談したり挨拶をしたりするだけの存在で、もその一人でしかなかった。
ただ、今日はちょっと。
「イメージちゃう言われても、お前の元々ののイメージがわからん」
「あれ?話した事なかったっけ?」
の元カレから聞いた話をすると、治は「ふーん」とさして興味のなさそうな様子で相槌を打った後、一応と言った感じで付け足した。
「俺はクラスメートとしてしか知らんからようわからんけど、悪い奴やない思うで」
「うん、俺もそう思た。でな、イメージちゃう言うんはな」
今日の会話を治に伝えてから、俺は続けて言った。
「素直な感じで可愛かったんよ、って……ソレはお前やん!ってツッコみそうになったわ。笑とる顔がなんやこう、うわーってぐらい可愛かってん」
「ほーん。惚れたんか」
「そこまではいかん。ちょっとドキッとしただけや」
「……まぁ、お前やしな。人でなしがまともなレンアイなんぞあり得んわな」
「なんやとコラ。お前、事あるごとに人でなし呼ばわりしよってホンマ腹立つ!今日という今日は許さへんぞ!」
「人でなしに人でなし言うて何が悪いんじゃ」
「俺は人でなしとちゃう!正直なだけや!」
「都合よく言い換えんなや!」
胸ぐらをつかみ合って立ち上がったところで、台所から「ケンカするなら外でしいや!」と母親の怒鳴り声が響いて来た。
むうう、としばらく睨み合っていた俺たちは、フンと鼻を一つ鳴らしてから手を離し、ドサリと音を立ててソファに座り直した。
再び雑誌を開いた治を後目に、食べかけだったアイスをイラついた勢いのままシャクシャクと平らげたら、頭にキーンと痛みが走って思わず低くうめき声が出た。
あほ、と隣からすかさずツッコミが飛んできて、喧しわ、と返して。
これ以上要らぬツッコミをされるのは御免だったから、俺はテーブルの上のゴミを掴んで、ことさら大仰にゴミ箱に放り込んでから居間を後にした。