11

 3年生にとっては、最後の舞台となる春高。
 県予選を危なげなく勝ち抜いた俺たちは、休む間もなく本大会へ向けて走り出した。
 今度こそ優勝して、引退する先輩たちの花道を飾りたい。
 口にせずとも1・2年は全員そんな気持ちで、前にも増して練習に熱が入っていく。
 しかし、学生生活は部活だけやっていればいいというものではない訳で、予選終了後さして日も置かないうちに、俺を含めた2年生は修学旅行へと出発した。

 行けば行ったで、旅行はそれなりに楽しかった。
 そして目的地の北海道から戻った翌日には、振替休日が宛がわれていた。この日は完全休養日で、部活の参加も禁止。
 旅行中の班は男女別で、とあまりゆっくり出来ないのは予想が付いていたから、前もってこの日に会う約束を取り付けておいた。
 修学旅行なんて早く終われって思うくらい、俺はそっちの方を楽しみにしていた。
 それでも、かろうじて最終日の夜だけはと二人で抜け出して、誰もいないホテルの中庭で一緒に過ごす事が出来た。
 ……のが悪かった。



 待ち合わせ場所のバーガーショップは、平日の午前中とあってガラガラだった。
「へっ…ぶ…しェいっ!シャアイッ!」
 すいている店内にくしゃみの音が響く。続いて背筋を駆け上って来た悪寒にブルッと体を震わせていると、がきゅっと眉間に皺を寄せた。
「侑、帰ろ?明日からまた部活もあるんやし、ちゃんと寝やんなあかんよ」
「これぐらい大丈夫やって!」

 顔を合わせてからすでに、三回は同じ会話をしている。だが、先ほどまでと違っては完全に心を決めてしまったらしかった。
「あかん言うたらあかん。ほら、帰るで」
 立ち上がったは、俺の分のトレイも手早く片付けると、ダストボックスへと真っ直ぐ歩いていく。
 本当ならこの後、一緒に食事をして映画を見る予定だったのに。

「なぁ、ほんまに大丈夫やって」
 未練タラタラでもう一度そう言ったら、「あほ」と小さな声が聞こえた。
 それが微かに震えている事に気付いて、まさかと思いながら顔を覗き込むと、はまさに泣き出す寸前の表情を浮かべていた。
「えっ、ちょ、なんっ……!?」
 焦って肩を掴んでもう一度顔を見ようとしたら、フイッとそっぽを向かれた。

「……お願いやから、言う事聞いて」
 涙混じりの声で懇願されたら、これ以上我を通す事なんて出来るはずもなく。
「わかった、わかったから、泣かんといて。ゴメンて」
 スン、と鼻を啜ったは、無言で手を突き出した。
 その手を握って並んで歩きだしても、気まずい空気はしばらく消えなかった。



 今日は私が送り届ける、と断固として宣言したと一緒に帰宅したら、家の中がシーンと静まり返っていた。
「あー、せやった。も今日は出掛けるて朝に言うてたんやっけ」
「誰もおらんの?」
「うん」
「ほな、誰か帰って来るまでおってもええ?心配やし」
「当たり前やん!ここで帰るとか言われたら泣いてまうぞ」
「あはは、わかった。……薬、ある?なかったらうてくる」
「んー。なんかあったはず」

 棚の上から救急箱を下ろして覗いてみると、幸い未開封の風邪薬が入っていた。
「良かった。飲む前に、お腹に何か入れんとね。お粥さん作ろか」
「えー!ガッツリ食いたい!腹減った!」
 叫んだそばからまたくしゃみが出た。三連発。
 は難しい顔で首を傾けた。
「食欲があるんはええけど、消化に良いもんにせな。お粥さん嫌やったら、うどんは?」
「うどんかー。お粥よりは腹に溜まりそうやな」
「うん。ほんなら失礼して、お台所借してもらいます。……あ!その前に、手洗いうがいや!侑もね」
「ウッス」



 トントントン、とリズミカルな包丁の音が響く。
 の手際は驚くほど良かった。出汁を取ってツユを作り、生姜をすりおろして鶏肉とネギを切り、卵を溶いて、合間に冷凍庫から出したうどんを茹でて。
 同時進行で、洗い物まで片付けていく。
 俺はダイニングの椅子に座って、時々くしゃみをしつつそんな後ろ姿に見入っていた。

「えらい手慣れとるなあ」
「週に二日くらいは私が食事当番やもん。お弁当も自分で作っとる」
「マジでか」
「ウチの方針なんよ。家事はやらな覚えんて、自分の部屋の掃除は小学校の時から、洗濯と料理は中学の時から」
「すげぇな」
「お姉ちゃんがな、おかげで一人暮らし始めた時も全然困らんかったて。あんたもしっかりやりやーて言われたわ」

 には東京の大学に通っている姉がいる。最初のカラオケデートの日に写真も見せてもらった。とはタイプが全然違うけれど、やはり綺麗な顔立ちの人だった。
 は母親似だから、姉の方は父親似なのかもしれない。

「俺も飯くらいは作れるようにならんとアカンなぁ」
「せやなぁ。食は全ての基本やもんね。……さ、出来た。熱いうちに食べてな」
 コトン、と食卓に出されたのは、ほこほこと湯気を立てるあんかけうどんだった。
 出汁と生姜とネギの香り、柔らかそうな鶏肉とふわとろの卵。

「おおー!めっちゃ美味そうやぁ!いただきます!」
「はい、どうぞ」
 はふ、と一口頬張ったら、箸が止まらなくなった。が作ってくれたというだけでも感激なのに、美味すぎて。
 4回おかわりしてようやく腹具合が満たされる頃には、全身がぽかぽかと温まり、うっすら汗をかくほどだった。

「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
「は~、美味かった。体もあったまったわ~」
「せやろ。これな、風邪引いた時の我が家の定番やねん。玉子入りのお粥さんか、このうどん」
「うちは梅干し入りのお粥やなあ」
「梅干しもええね。……はい、お水。薬、ちゃんと飲んでな」
「ウッス」

 後片付けくらいは手伝おうと思ったのだけれど、「病人は大人しゅうしとき」と言われてしまって、仕方なくまた椅子の上からの後姿を眺めた。
 ――ええなぁ、こういうん。
 結婚したらこんな感じなのかな、と思うとニヤついてしまった。
 家事は女の仕事だなんてカビが生えた考えは持っていないが、惚れた女が自分のために一生懸命に何かをしてくれるのは素直に嬉しいし、感動もする。
 ――あ。今、俺。
 めちゃくちゃ自然に、“惚れた女”って思った。



 細い腰に両腕を回すと、片付けに夢中になっていたらしいの肩がピクンと跳ねた。
 料理をするために簡素にまとめられた髪。
 あらわになっている首筋に唇を寄せて、甘い肌の匂いを吸い込んだ。
「あんな、俺な」
「うん?」
「惚れとるわ、お前に」
 振り向いた目と、目が合った。

「……ほんま?」
「うん。今ハッキリそう思た」
「びっくりした……私も、侑の事がほんまに好きやなぁて、実感しとったとこやねん」
「マジか」
「うん。ご飯作って、一緒に食べて、片付けしとったらな、結婚したらこんな感じなんかなぁ、ええなぁ、幸せやなぁ、て考えてしもてん」

 ほんのりと赤らんだ目元、頬、耳朶。
「なんや、おんなじやん。俺も考えとった。結婚したらこんなかなぁ、ええなぁ、て」
 嬉しい、と微笑んだ唇を塞ぎながらこちらを向かせて抱きしめると、胸の奥をきゅうっと絞られるような感覚が走った。
 痛いような、苦しいような、身の内に震えが走るような、なのにたまらなく心地良くて、甘美な。

 ――ああ、そうか。

 愛しい、ってこういう事なんだ。
 それを伝えたくてするんだ。
 手を繋ぐのも、抱きしめるのも、キスをするのも。
 そして、それだけじゃ足りないから、もっと強く深く伝えたいから。

 ――抱きたい。

 やりたい、とは明確に違う感情。
 俺と同じように、も思っている。
 伝わって来るから、わかる。
 好き、愛しい、もっと、と。
 でも、そこに一つの波紋が起きた。

「……あかん、あかんよ」
 弱々しい力の、けれどしっかりと意志を持った手で胸を押された。
「なんで?」
「今はあかん。風邪、ちゃんと治さんと」
「大丈夫やって」
「あかんて……」

 嫌だ。今、抱きたい。流されて欲しい。
 そう思いながら強制的に言葉を封じて、儚い抵抗も抱きしめて封じて、ひたすらに夢中に、ただただ溢れる感情を注ぎ込んだ。
 そうして沸騰していた頭が一気に冷えたのは、頬に濡れた物を感じた瞬間だった。
 貪っていた舌を解放して唇を離すと、は静かに泣いていた。
 嫌がられている訳ではない。それはわかっている。
 だったら、どうして。

「なんで泣くん?」
「今はあかんて、言うてるやん。お願いやから、辛抱して」
「風邪引いとるから?」
「そうや」
「むっちゃ抱きたいねんけど」
「わかっとる。私かて、そうして欲しい。けど、今はあかん」
「どーーーーーしてもアカン?」
「どうしてもや」

 涙を含んだまま真っ直ぐに見上げてくる目は、迷いが一片もなく強かった。
 それはうちの主将によく似た、俺がどうあっても逆らえない、そういう種類の強さだった。



「は~~~。は頑固やなぁ。わかったわかった、俺の負けや。大人しゅうしますぅ」
 ぱ、と手を離すと、はホッと息を吐いて目元を拭った。
「わかってくれて、ありがとう。ごめんね」
「謝らんでええ。心配してくれとるんやろ」
「それはもちろんなんやけど……」

 そう言いながら、は丼を拭いて食器棚に仕舞った。
「けど、なに?」
「うん。……その前に、ちゃんと横になって。せっかく薬飲んだんやから」
「ハイ。客間に布団敷きますー。風邪の時はに移さんようにそうする決まりなんで~」
 の言う通りにする事にした俺は、素直に返事をした。

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