それを腋窩に挟んでじっとしていると、がリンゴを剥いて持って来てくれた。
「フッフ、ウサギさんや」
可愛らしい形を見て思わず笑いを漏らした俺に、も目を細めて頷いた。
「これも風邪の時の定番やねん。お母さんおらん時は、お姉ちゃんが剥いてくれとった」
の言葉の最後にかぶるようにして、ピピッと電子音が響いた。
液晶が示している数値は37.5。
「嘘やん。熱なんて全然ない思うとったんに~」
「微熱やんな。けど、油断禁物や。これから上がるかもしれへん。……リンゴ、食べる?」
「うん」
リンゴを食べ終えた後、皿を片付けて戻って来たは、ぺたんと座ってスマホをいじり始めた。
特に具合が悪い訳ではない俺としては、退屈で仕方がない。我慢して大人しくしていたが、すぐに限界が来た。
「なぁなぁ」
膝をツンツンとつつくと、は手を止めてこちらを見てくれた。
「なに?」
「さっきの話の続き、気になる」
「うん?続き?どれ?」
「心配しとるのはもちろんなんやけど、の続き」
「あかん、せやった!大事な話やのに、忘れるとこやった!」
そう言ってスマホを畳の上に置くなり、は神妙な顔つきをした。
「え、なに、どしたん?顔がマジやで」
「ごめんなさい」
深々と頭を下げられて、俺は呆気に取られた。
「へ?なんで謝るん?」
はますます頭を垂れた。
「私のせいで、侑に風邪引かせてしもた。ごめんなさい」
「は?なんで?お前のせいて……」
「私が昨夜、薄着しとったから。ほんまにごめんなさい」
そこでようやく、俺は今日これまでのの言動の意味に思い至った。
***
どこにいても人目が付いて回って、とゆっくり話も出来ないまま迎えてしまった修学旅行最後の夜。やっと巡って来た機会を逃すまいと、俺たちは二人だけでコッソリとホテルの中庭へ抜け出した。
11月の北海道の夜は真冬並みに寒かったけれど、そのおかげで他には誰もいなくて、降るような星空の下で幸せな時間を持つ事が出来た。
誰にも見せたくないし見られたくない、それはもう甘ったるいひと時に浸っているうちに、隣からクシュンと小さなくしゃみが聞こえて、俺は慌てた。
隙を見て急いで出て来てしまったせいで、の服装まで気が回っていなかった。
俺はひと気がない場所を探してうろついていたから、それなりにしっかり着込んでいたのだが、はジャージの上下にパーカーだけ。
『大丈夫か?これ、着とって』
ウインドブレーカーを脱いで着せかけようとすると、は両手を振った。
『あかんあかん!私は風邪引いてもかまへんけど、侑は部活あるんやから』
『俺は鍛えとるから平気や。寒うなったらちゃんと返してもらうから、着とけ』
『でも』
『ええから』
半ば強引に着せたウインドブレーカーは、にはブカブカもいいところだったけれど、それがたまらなく可愛かった。
『わぁ、ぬくい。ありがとう。……ふふ、侑の匂いがする』
『え、臭かった?』
『あはは、ちゃうちゃう、ええ匂い。ギュッてしてくれる時の匂いや』
『そんなん、直接嗅いだらええやん』
ほら、と抱き寄せると、はコアラみたいに俺の体に両腕を回して、胸元に顔を埋めた。
『侑の匂い、大好き。……なんやめっちゃ安心すんねん』
『ほんなら、ずっとこうしとくか』
『ええなぁ。そう出来たら最高やなぁ』
『……お前もいっつもええ匂いしよる』
『ほんま?香水は付けとらんのやけど』
『そんなん付けんでもええ匂いや。俺もむっちゃ好き』
嬉しい、と笑った唇にキスを落として、それから消灯時間ギリギリまでそこで過ごした。
***
膝の上で揃えられた手を握っても、は頭を下げたままだった。「あほ。お前のせいちゃうわ。顔上げぇ」
「私が悪いねん」
「ちゃうて。俺が考えナシに急かしたせいやんか」
「ううん。私がちゃんと着込んで出直したら良かったんに、せんかった」
「そんな時間なかったやろ。俺のせいやん」
「私のワガママや。やって、一緒におりたかってんもん。そのせいで侑が」
涙で濁った語尾を耳にすると同時に手を引っ張り、倒れ込んだ体を抱きしめて、濡れた目元、頬、と順に唇で拭った。
「俺も一緒におりかった。せやから、焦って連れ出してもうた。どっちも考えナシのワガママやった、って事やんな?お前だけやない」
「そう、なんかな」
「そう!二人ともワガママでおあいこ!……もうこの話は終いや。ええな?」
「はい」
「よし。もう泣かんといてな?」
「うん、ごめん。もうメソメソせん」
「ええ子や」
手触りの良い頭を撫でているうちに、はそろそろと起き上がって座り直した。
「少しでも眠れそうやったら、寝てね。欲しい物あったら、なんでも言うて。私、ここにおるから」
「ありがとう」
にこ、と笑ったの表情は、先ほどまでとは打って変わってシャキッとしていた。
気持ちの切り替えが早いのはの長所の一つだ。いつまでも済んだ事を引きずらず、すぐ前に向き直る。そういう性分は好ましい。
布団の中で繋いだ手を親指の腹で弄んでいると、が遠慮がちに言った。
「眠くないんやったら、ちょお話してもええ?」
「ええよ、なに?」
「あんな、こないだ気付いたんやけどな、新記録やねん」
「新記録?」
「侑と付き合うてから、5カ月経ったやん?私、今までの最長記録が3カ月やってん」
「それ、俺もや」
「えっ、ほんま?」
「うん。俺も持って3カ月やった」
「うわー、あんまり喜べんオソロやぁ」
「せやな。……あ、俺の新記録もう一つあった」
「なになに?」
「清いカンケイ新記録。まだちゅーしかしとらんて、自分でビックリするわ。そろそろチンコ爆発するかもしれん」
「あははは、そらえらいこっちゃ。アツムやのうて、アツミちゃんになってまうなぁ」
「誰がアツミちゃんやねん!ほんまつらいで。せっかく二人きりやのに、今日はどーしても抱かせてくれへん言うし~」
わざとらしく口を尖らせると、はキッと真顔になった。
「今日はあかん」
「わかってますぅ。そのかわり、風邪治ったら覚悟しとけよ?抱きつぶしたるからな」
「うん」
「うん、て!可愛い返しやめぇ!勃ってまうやろ!」
「その元気、今は風邪治す方に全部使うてね」
「……ウィッス」
それから少しして、俺は薬のせいか眠りに引きずり込まれていった。
どれくらい時間が経ったのか、ろくでもない夢を見て一気に覚醒した。
夢は他にもたくさん見ていた気がする。
ただ、目覚めの直前に見ていたそれが生々しすぎて、他の夢の記憶など欠片も残っていなかった。
組み敷いた白い躰、掠れた喘ぎ、熱を帯びた吐息。侑、と呼ぶ甘い声。
初めて見た夢じゃない。自慰の時に何度も繰り返している妄想でもある。
でも、本人が横にいる時にこれは気まずすぎる。寝る前にあんな話をしたせいだろうか。
早鐘のような心臓を自然と手で押さえながらちらりと窺うと、そこにの姿はなく、気付けば部屋は真っ暗だった。思ったより長々と眠っていたらしい。
ホッとすると同時に一抹の寂しさを覚えつつ息を吐き出したら、全身が汗で濡れているのを感じた。
着替えなくては、と体を起こしたところで、襖が開いて母親が入って来た。
「あら、起きたん?」
「今、目ぇ覚めた。……は?」
「さっき帰ったとこや。すっかりあんたがお世話になったみたいやし、晩ご飯食べてってやぁて言うたんやけどねぇ」
「そうか」
パチリと点けられた照明の眩しさに顔を顰めながら枕元のスマホに手を伸ばすと、10分ほど前にからメッセージが入っていた。
“おばさんが帰って来たから、後はお任せして帰るね。お大事に”
「汗出たみたいやな。ちゃんと拭いて着替えといで。その後で熱計ってな」
「んー」
治がまだ帰っていない部屋は、シンとしていて寒かった。
手早く着替えを済ませて客間に戻り、言われた通りに検温してみれば、熱はすっかり下がっていた。
早速母親に結果報告して、普通の晩飯が食える事をアピールしてから、にも回復を報せた。
“熱下がった。今日はありがとう。約束、忘れんでな?”
すぐに既読が付いて、返信が来た。
“油断したらあかんよ。約束はちゃーんと覚えてます”
風邪が治ったら、の約束。
実行出来るチャンスはいつ来るのやら、今は全く予想が付かなかった。