13

 治が高校でバレーをやめると知ったのは、進路指導があった日だった。
 そんな予感はしていた。
 俺のユース合宿招集が知らされた日の、あの言葉を聞いた時から。

『あんま悔しいと思てへん事が悔しい』
の方が俺よりちょびっとだけ、バレーボール愛しとるからな』

 ――なん、それ。どういう意味や。

 そう思ったけれど、聞き返せなかった。妙にさっぱりしたような治の顔を見ていたら、聞けなかった。
 でも、事実はいつだって変わらないし、近すぎる距離は知らないフリを通す事を許してくれやしない。

『俺のバレーは高校で終いや』
 耳から入って来た音が、脳で意味を成すまでの間がやけに長かった。
 その間に、ああやっぱりな、と頭の中の冷静な一部が感じていた。
 けれどそれ以外の全てで、俺は治の言葉を拒否しようと試みた。無駄な抵抗に過ぎないと知っていて、なお。
 殴り合いに発展するはずの喧嘩は、胸ぐらを掴み合って、言い合って、それで終わった。
 事実はいつだって変わらないのだ。殴ろうが蹴ろうが喚こうが、何も変わらない。
 その日の練習には普段以上に力が入った。治に負けたくない理由が、一つ増えたから。



 帰りのバスの中、俺はに“今から帰る”とメッセージを送ってすぐ、通知を切って寝た。
 やがて治に起こされて欠伸をしながら降車して、家に着いて飯を食って、風呂に入って。
 髪を乾かして風呂場から出ると、食卓で治と両親が進路の件で話をしていた。
 それを横目に冷蔵庫から出したポカリを立て続けに二杯飲んで、空いたグラスを流しに置き、2階に上がった。
 部屋の照明を点け、暖房のスイッチを入れ、ボケッと椅子に凭れているうちに、正体不明の薄気味悪い何かがじわじわと胸の中に広がって来て、唐突にの声が聞きたくなった。

 LINEを立ち上げてみれば、“お疲れ様。気を付けて帰ってね”という返信が届いていた。
 “声、聞きたい”と送ると、じきに既読が付いて、OKのスタンプが返って来た。
 即座に通話ボタンを押して、「バスで寝てもうた。ごめんな」から始まって、夕飯のメニューだとか、もさっきまで風呂に入っていたとか、いつも通りの雑談をした。
 何かあったん?と聞かれたのは、だらだらと習慣的に流れていた俺の言葉が、ほんの僅か途切れた時だった。

「なんもないよ。なんで?」
『なんや元気ないから』
「えー、気のせいちゃう?」
『そっか。……もし、何かあったならあったで、それでもええんよ』
「それでもええ、て?」
『言いたない事は、言わんでええよって意味。そら侑の事は出来るだけ知りたいけど、なんでもかんでも全部私に教えて!なんて無茶は言わへんから、安心して』
 そう言われた次の瞬間、俺は「今から会いたいねんけど」と口にしていた。



 時間が時間だったから、の家まで迎えに行った。
 LINEでやり取りしながらタイミングを合わせ、俺が着くのとほぼ同時にが玄関からひょこっと姿を現した。
「すまんな、こんな時間に急に」
「全然。会えるんはいつでも嬉しいもん」
「……あったかいモンでも飲もか。オゴったるわ」
「やった!ココア飲みたい!」

 修学旅行の時の教訓を生かして、今夜は二人ともしっかり着込んでいる。コンビニでココアと紅茶を買って、近くの公園のベンチに腰を落ち着けた。
 いただきます、と微笑んだ横顔に釣られて、口角が上がるのを感じながらペットボトルのキャップを捻ると、微かな湯気がゆらりと立ち上った。

 声が聞きたくなって、それでも何か物足りないような気がして会いたくなって、こうして一緒にいるというのに、いざ顔を合わせたら自分が何をしたかったのかわからなくなってしまった。
 通話では普段通りに出て来た言葉も、今は全く浮かんで来ない。
 ただ黙って並んで座って、ちびちびと飲み物を味わうだけの時間が過ぎていく。

 に言いたい事、聞いて欲しい事が、多分ある。
 心のずっと奥の方で石みたいに固まっている、なんのまとまりもない、言葉にすらなっていない、部屋に一人でいた時に感じた、正体不明の薄気味悪い何かが。
 でも、言いたくないとも思っている。惚れた女に弱みなんて晒したくない。それは例えつまらなくてもささやかであっても、譲れない男の意地だ。

 ――弱み、か。そうか。俺は今、弱ってるんやなぁ。

 そう自覚したら、沈んでいた物がのろりのろりと浮上してきた。

 寂しい。

 最初に浮かんできた一番大きな固まりはそれだった。
 すると重石が取れたかのようにほぐれた様々な思いが、一気に溢れてきた。



 生まれる前から一緒だった。
 俺の横にはいつも治がいた。
 仲間内でどれほど嫌われようが、何を言われようが、痛くも痒くもなかった。
 決して一人になる事はないと知っていたから。
 後先考えず突っ走る事だって、少しも怖くなかった。
 治が必ずついてくると知っていたから。
 俺たちは常にそうして、有形無形の様々な物を分かち合いながら、あるいは奪い合いながら、隣り合って、並んで、競ってきた。
 俺のバレーには、いつも治がいた。

 この先もずっと、なんて思っていた訳じゃない。
 でもそれは、卒業したら別のチームになるのかも、ぐらいの軽い気持ちだった。
 あの時までは、そう思っていた。

『あんま悔しいと思てへん事が悔しい』
の方が俺よりちょびっとだけ、バレーボール愛しとるからな』

 その言葉と表情で、瞬時に気付いてしまった。
 どれほどわかりたくない事であってもわかってしまう、あまりの近さに対して腹が立つほどに素早く、治が俺とは違う未来を見ているという事実に。
 そして、俺たちが別々の人間である以上それが当然である事も、治が選ぶ道を世界中の誰が認めなくても、俺だけは認める事も同時にわかっていた。

 当たり前だ。あいつは俺の片割れなんだから。
 けれど、どれほど理解していても感情ばかりは綺麗に割り切れるものじゃない。
 この馬鹿でかい寂しさを飼い馴らすには、それなりに時間がかかるだろう。
 それでも俺がバレーを絶対に諦めないように、治も自分が選んだ道を絶対に諦めない事だって、とっくにわかっている。

 だから、俺たち二人の根底は何一つ変わらない。
 隣にいなくても、並んでいなくても、一生競い合って高め合っていける。
 分かれた道を行くその先で、幸せになるのだ。治は俺よりも、俺は治よりも。
 そのために俺はもっと強くなる。上手くなる。
 俺の方が幸せだったと、いつか言い合う日のために。



「……よっしゃ!スッキリした!」
 急に大声を出したせいで、の体が派手に跳ねた。
「うわぁ、びっくりしたぁ!」
「すまん。驚かせてもうた」
「ええよ。元気になったみたいで安心したわ」
「うん。……ありがとうな」
「ええ?私、何もしてへんよ?ココアおごってもろて、飲んでただけやん」
「それでええんや。前にも言うたやろ。お前はただ、おってくれたらええねんて」
「そう?なんやようわからんけど、役に立てたんかな?」
「おう。充分立ったで」
「ほんなら嬉しいなぁ。良かった」

 小さな肩を抱き寄せて、ココアの匂いがする甘い舌を味わうと、胸の底に横たわっている寂寞がいくぶん薄れていくような気がした。
 治が理由の感情をの存在で薄められたと感じるのは、多分ただの錯覚だ。
 けれど魂にぽっかりと穴が開いたようなその気持ちを、認めた上で向き合う事が出来たのはのおかげだ。
 聞きたい知りたい、そんな欲を抑えて、何も言わずにただ寄り添っていてくれたから。

「ほんまにありがとう。お前がおってくれて、良かった」
「ううん。そんなふうに思ってくれて、私こそありがとう」
 少し照れている笑顔に、もう一度キスをした。
 伸ばした手で包んだ頬は、冷たくて柔らかかった。

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