16

 家に帰って居間の様子を窺うと、父親は風呂に入っているらしく、母親が煎餅を齧りながらテレビを見ていた。
 すう、と息を一つ吸い込んでから、俺は母親に声を掛けた。
「オカン」
「んー?」
「俺、24日晩飯いらんわ」
「あら、へーえ。ちゃんとデートでもするん?」
 揶揄をたっぷり含んだ口調で訊ねられて、俺はさらりと答えた。
「デートっちゅうか、泊まってくる。向こうの親、一晩留守にするんやて。不用心やから、俺が付いとったるんや」
 最後の部分はこじつけだが、事実でもある。

 母親はしばらく黙って俺の顔を見ていたが、「わかった」と頷いてから続けた。
「悪さしたらあかんで?」
 無意味だとわかっていても、親としてはこう言うより他はないだろう。
「わかっとる」
 建前には建前だ。真顔で返事をすると、母親はふっと頬を緩めた。
「25日の朝ご飯とお弁当もいらんよね?」
「おん」
「了解。お昼ご飯のお金、いつもの引き出しから持って行き」

 友達のところに泊まるとか、適当な嘘を吐こうと思えばいくらでも吐ける。
 でも、それは嫌だった。
 うちの親は二人とも頭が固くはないから、正直に話しても許してもらえる、そんな算段もあったし、何よりの事で嘘を吐きたくなかった。
 さすがに父親に直談判するのは気が引けて、母親にコソッと、にはなってしまったけれど。

 ――は親に言うんかな。
 男側の親と女側の親では、こういう事の受け止め方が違うだろうと言うのは、考えるまでもなくわかる。
 向こうの父親が許すはずがないのは当然として、母親の方はどうだろう。
 を送って行った時に何度か会ったのと、電話で話した時の感じでは、それほどガチガチな人じゃない、という印象だった。

 階段を上がる途中で立ち止まって、にメッセージを送ってみた。
 “24日、オカンの許可もろた”
 すぐに既読が付いて、返信が来た。
 “私もお母さんに話した。お父さんには内緒にしとくて言うてくれた”
「マジか」
 思わず漏れた独り言と同時に、ついニヤけてしまった。
 が母親に正直に話してくれた事も、その結果許してもらえた事も、どちらも同じくらい嬉しかった。



 24日は朝からよく晴れていて、かなり冷え込みがキツかった。
 家を出てから学校に着くまでの間、寒さもまともに感じないくらい浮かれていた俺だが、着替えを済ませる頃には自然にスイッチが切り替わって、いつも通りのコンディションで部活を終えた。
 そしてその後は朝の状態を逆回転するがごとく、ふわりふわりと心が躍り始めた。
 帰りのバスに乗った途端、治に「顔がキモチワルイ」と失礼な事を言われたにもかかわらず、ヘラヘラと笑い返すに留めるくらい、俺は再びの浮かれモードに入っていた。
 バスのスピードが、いつもより遅く感じられて仕方がなかった。

 ようやく家に着いた後は、真っ先に風呂を済ませた。
 念入りに全身を洗ったし、大して伸びてもいないヒゲも丁寧に剃ったし、髪もきっちり乾かして整えた。
 それから2階に駆け上がり、明日と今夜二日分の準備を済ませ、忘れ物がないかしつこいくらいバッグの中身を確かめて、に「今から行く」と連絡を入れた。



 ドアを開けたが、「お疲れ様」と笑顔で言った。
 それだけでなんだか胸がキュンとして、「うん」としか言葉が出て来ない。
 家の中は玄関先まで食欲をそそる良い匂いが漂っていて、忘れていた空腹を強烈に感じると同時に、ぐうーと間の抜けた音が響いた。
「ご飯出来てるよ。どうぞ、上がって」
 笑い交じりにそう言われて、「お邪魔します」と一礼してからスニーカーを脱ぎ、いつもならほったらかしのそれをきちんと揃えて框に上がった。

 初めて入るリビングに足を踏み入れると、左手側にある食卓一杯に並べられた、見るからに美味そうな料理が目に飛び込んできて、思わず「すげえ!」と感嘆の声が出た。
 案内された洗面所で手洗いとうがいを済ませてから、椅子を勧められていそいそとテーブルに着く。
 おそらく一日がかりで用意してくれたのであろう、心づくしの数々はどれもこれも美味くて、片っ端から皿を空にしつつ、何度も「美味っ!」と言わずにいられなかった。
 誕生日に作ってくれたのとは違う、フワフワした軽い食感のケーキも、さんざん食べた後にもかかわらず、ペロッと胃に収まってしまった。

 食後の一休みを終えてから並んで洗い物を始めて間もなく、が横顔で微笑んでいるのに気付いた。ご機嫌だな、俺もだけど、と思っていると、笑顔のままでが言った。
「これだけ食べてくれたら、作り甲斐あるわ。嬉しかった」
「腹減っとったのもあるけど、むっちゃ美味かったんやもん。準備大変やったんちゃう?」
「全然。侑って、何でもえらい美味しそうに食べるやんか。あんな顔してくれたらええなぁて思いながら支度するのん、楽しかった」

「そうか?俺はほど幸せそうに食うてへんやろ」
「ああー、治君はそうやねぇ。侑は美味しそうに、治君は幸せそうに、って感じやね。二人ともええ顔して食べてくれるから、おばさんも毎日お料理頑張れるんやろなぁ」
「自分ではようわからんけど、お前が大変やなかったんなら良かった」
「うん。綺麗に食べてくれて、ありがとう。洗い物も手伝うてくれてありがとうね」

 ああ、いいなぁ、と改めて思う。
 些細な事に対しても“ありがとう”を忘れない、の心根にたまらなく惹かれる。
 その他にも色々あるけれど、の美点に触れるたびに、惚れ直すってこういう事なんだろうな、と実感する。



 片付けの後でリビングで寛いでいたら、ちょっと失礼、とが席を外した。
 その隙に、用意していたプレゼントの包みをバッグから取り出した。潰れないようにジャージで包んでおいたから、リボンの形も崩れていない。
 よしよし、と一人で頷いたところに、が戻って来た。
 後ろ手に何か隠しているのがすぐわかって、同じタイミングで同じ事を考えていたんだな、と口元が綻ぶ。
 メリークリスマス、と言いながら包みを差し出し合って、一緒に笑った。

 早速開けてみた中身は、手触りの良いマフラー。滑らかで柔らかくて、触れただけで品物の良さがわかる。どんな服にも合いそうな色味も嬉しい。
「むっちゃええやん!ありがとう!あったかそうやぁ。明日から毎日使うわ」
「良かった、気に入ってもらえて。……あっ、これオマケ」
 そんな言葉と共に、小ぶりの袋を手渡された。

 オマケと言いながら、こちらもちゃんとリボンが掛けられているから、わざわざ買ってくれたのは間違いない。
 なんやろ?と開封したら、俺が愛用しているブランドのハンドクリームだった。
「おぉ、助かるわー!そろそろ買わなあかん思てたとこやねん。ありがとうな!」
「それならいくつあってもええかな思て」
「うん、冬場は特にようけ使うからなぁ。……って、お前もはよ開けぇや。いつまで大事に抱えとんねん」

 ツッコミを入れると、はようやくプレゼントのリボンに指を掛けた。
「それじゃ、開けます。……んーっ、ワクワクする」
 そう言いながらラッピングを開いたの唇から、「わぁ」と声が漏れた。
 見ているこっちまで嬉しくなる、飾らない笑顔が眩しい。
「可愛い!めちゃめちゃ可愛いー!嬉しい!ありがとう!」

 ネットで色々調べて買ったネックレスは、無事に気に入ってもらえたようだ。肌が弱いも、金属アレルギーがないのはリサーチ済だ。
 喜んでくれた事にホッとしながら、の手元からそれをそっと取り上げて、繊細な金具の扱いに気を付けつつ、首に掛けてやった。

「……うん、よう似合うとる」
「ありがとう。ほんまに嬉しい。大切にするね」
「そんな大層なモンとちゃうし、毎日付けてや。ネックレスなら、学校でもバレへんやろ」
「うん!」
「俺もありがとうな。……また貯金使たんちゃう?なんやこれ、むっちゃ触り心地ええで?高そうや」
 マフラーを撫でながらそう言うと、は「ううん」と首を振った。

「前はオソロで私もうてしもたから。今回はお小遣いしか使うてへんよ」
「そうか。……ネックレス、安物ですまんかったけど、誕生日は期待しとってな」
「何言うとん。値段なんてどうでもええねん。侑が私の事考えて選んでくれた物なら、例え百均のアクセでも宝物や」
 真剣な表情でそう言われて、本日二度目のキュン、を味わった。
「嬉しい事言うてくれるやん。ありがとう。けど、俺かてたまにはカッコつけたいねや~」
「えっ、侑はいつでもカッコええよ?」

 ――アカン、トドメ刺された。

 ストレートで、何の含みも裏もない、素直な言葉で。
「……あー」
 両手で顔を覆ってソファの背に頭を凭せ掛けると、不思議そうな声がした。
「侑?どしたん?」
「お前、ほんまに……ちょいちょい俺を殺しにかかるよな」
「えぇ?」
「完全に死んだんで、お願いします」
「お願い?なに?」



 ソファの背から持ち上げた頭を、そのままの肩先へと落とした。
 さっき掛けてやったネックレスのチェーンが、ひやりと頬を掠める。
 ネックレスを選んで贈った意味を、は知っているのだろうか。
 ――永遠に繋がっていたい――
 ネットで見た言葉を思い出しながら、目の前にある薄赤い耳朶に唇を寄せた。

 抱かせてや。

 囁いた言葉に、が一瞬息を詰めたのがわかった。
 短いような長いような沈黙の後に、小さな声が答えた。

 はい、と。

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