17

 の部屋は、持ち主と同じいい匂いがしていた。
 適当にしとって、と言い置いてが出て行った後、人をダメにしそうなクッションに腰かけてスマホをいじり始めたものの、落ち着かない事この上ない。
 少しも集中出来ないままのパズルゲームは、ひどいスコアを連発。
 こりゃダメだとアプリを閉じて、乾いた咽喉をお茶で潤したところで、大事なルーティンを忘れていた事を思い出した。
 コレを忘れるなんてどれだけ緊張してるんだ、と自分に呆れてしまうほど重要な事。

 毎日欠かさず行っている手のケア。
 ヤスリをかけ、ハンドクリームを擦り込み、マッサージをする。どの工程も丁寧に、丁寧に。
 一つ一つ進めていくうちにいつしか完全に作業に没頭して、それにつれて緊張も自然に解けていった。
 そうして仕上がり具合を確かめている時にカチャリとドアが開いて、風呂を使っていたが戻って来た。

 さっきまでの俺よりもっと、それはもう気の毒なくらい緊張しているのが一目でわかる。
 風呂上がりに着替えたらしい、パステルカラーのルームウェアがよく似合っていて、少しでも気持ちをほぐせたらとそれを口にしてみた。
「部屋着、可愛いな。似合うとるで」
「えっ?あっ、ありがとう。ぬくいねん、これ」
 ぎこちなく笑って差し向かいに腰を下ろしたは、手にしていたお茶をくぴりと一口飲んだ。
 ふわ、と風呂上がりの匂いが漂う。
 ヤバい。俺もまた緊張してしまいそうだ。でも、今はの様子の方が気になる。

「……緊張しとる?」
「う、あ、はい」
「まぁ、せやろな。俺もや」
「そ、そっか」
 気まずい。と言うか、気恥ずかしい。
 何か適当な話題がないかと思案していたら、が「侑」と呼び掛けて来た。
「ん?」
「……あんな、私な」
「うん」
「別に、初めてって訳やないんよ。ただ……」

 そこで言葉を止めたは、そのまま黙り込んでしまった。
「言いにくい事やったら、無理して言わんでもええで?」
「ううん、言わなあかん事やから」
 思い詰めたような目が気になって、先を促した。
「おん、どないした?」
「私な、エッチってようわからへんのや」
「わからんて?」
 何度か口を開閉してから、が言った。
「気持ちいい、て思た事が一度もないねん」

 そら男が下手糞なだけやろがい、と思ったけれど、悲壮なの表情を見ていたら、軽口に取られかねないそんなセリフは言えなかった。
 は俯いたまま、言葉を続けた。
「せやから……もし、つまらんかったらごめんね」
 ぺこんと下げられた頭にポンと手を乗せると、はすまなそうに体を縮めた。

「あほ。んな訳あるかい。ごめんとか言うな」
「だって、侑にはセフレおったやろ?ちゃんと、その……感じてくれる人ばっかりやんな?」
「そらまぁな。けど、セフレとお前は全然ちゃうで。俺はお前とやりたい訳やないもん」
「え?」
「俺もこんなふうに思たん初めてやから上手い事言えんけど、やりたいのと抱きたいのは別モンなんや」

「……別モン」
 鸚鵡返しにそう言ったの頭を撫でると、いくらか普段の光を取り戻した目と、目が合った。
「せやから、お前相手につまらん思うとかあり得ん」
「……そっか」
「って、なんぼ口で言うてもピンとぇへんやろ。俺も言葉で説明出来る自信ないしな」
「……うん」
「心配せんと、黙って抱かれとき。やりたい訳とちゃうて意味、絶対わからせたるから」
 言葉でも、手を繋いでも、抱きしめても、キスをしても、伝えきれない想いがある。
 それを、今。



『男と女はちゃう。女は必ずイける訳やあらへん』
『AVやエロ漫画と一緒にされたらかなわん。中イキなんて、する女の方が少ないんやで』
『女の体は準備が必要や。せやから時間をかけなあかん。手も抜いたらあかん。それが面倒や思うなら、大人しゅう一人でしとき』

 俺にそう教えてくれたのは、元セフレのあの先輩だ。
 先輩は俺にとってずっと、女に関しての優秀かつ厳しい教師でもあった。
 単純な体だけの関係でしかなくても、良い勉強は充分させてもらった。
 そのおかげで、に対してもいくらかの余裕を保っていられたのだと思う。



 眠っているポイントを探って、見付けたらじっくり起こしていく。
 焦らず、慌てず、反応を見極めながら。
 そうやってじわじわと進めた指先に、とろりと蕩けた感触があった時はホッとした。
 そこからまたゆっくり、ただし休む暇は与えずに。

 自分一人じゃなく、二人でヨくなりたい。その方が気持ちいいから。
 それは相手がただのセフレでも、惚れた女でも同じだ。
 でも違う。
 快感を拾い合って達する事だけが目的の、自慰の延長でしかない行為とは違う。
 好き、愛しい、可愛い、そして心から大切に思う、その全部がどうか伝わりますようにと、祈るような気持ちで触れるのはだけだ。

 やがて未知の感覚に翻弄され始めた躰が、シーツに皺を作りながら何度も撓った。
 羞恥のために限界までこらえて、にもかかわらず乱れた息遣いと共に漏れてしまう声。
 熱を帯び、溢れ返る快楽の核心。
 そんな様子で煽り立てられる征服欲と、駆り立てられる情欲。
 男なんて本当に馬鹿だ、と自分で思う。
 だけど、それだけじゃないと知って欲しい。
 もっと、もっと。求めている分、求めて欲しい。

 少しずつ、その瞬間が近付いてきている。
 追い詰められた声での哀願。
 戸惑っているだけなのがわかるから、精一杯であろう力で何度手を押さえられても、無視して強引に続ける。

 あかん、待って、それ、もう。
 切迫した言葉が、甘い喘ぎで塗り潰されていく。
 侑、侑、あつむ、あつむ。
 必死の力で縋り付いて、最後は幼児のような舌足らずで。

 くたりと脱力した体を抱きしめて「ちゃんとイけたやん」と頭を撫でた。
 苦しいほどの愛おしさを込めて、忙しない呼吸を繰り返す唇を何度も啄む。
 それから手早く準備をして、未だ呆然としている頬を撫でながら、「挿れてもええ?」と訊ねた。
 微かに頷いたのを確かめてからゆるゆると奥まで貫くと、細い指が背中に強く食い込んだ。



 溶けてしまえたらいいのに。
 溶け合って、混ざり合って、と完全に一つになってしまえたら。
 重ねられるところは一つ残らず重ねて、そうしたらきっと、と思っていたのに、そのはずだったのに、それでもまだ物足りないと貪欲に願う。
 氾濫する感情に、体が追い付かない。
 限界まで侵食してもそれはお互いのごく一部に過ぎない、その事がもどかしい。

 同時に味わう、泣き出したくなるような幸福感。
 確かに今、一番深い部分で繋がっている。心ごと繋がっている。
 細胞全てが、好きだと叫び出す。
 足りないと感じながら満たされているとも感じる、矛盾もそのままに。

 から伝わってくる、見えないものが嬉しい。
 懸命に健気に受け入れて受け止めて、同じだけ返したいと、同じだけ応えたいと、全身で語ってくれるのがたまらなく。

 数えきれないくらい、経験してきた事。
 けれど、本当の意味でのセックスをしたのは今日が初めてだ。
 俺だけじゃなく、も。

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