18

 事が終わった後にまで抱きしめたいとかキスしたいとか、そんなふうに思ったのは初めてだった。
 ちょっと引かれてるんじゃないかってくらい何度もそうしているうちに、がとうとうくすぐったそうに笑い出した。
 釣られて俺も笑って、オマケみたいなキスをもう一度した。

「俺、明日死ぬんちゃうかな。幸せすぎて怖いわ」
「ほんなら私も一緒やなぁ」
「それはアカン。二人で明日を生き延びるんや」
「あはは、せやねぇ」

 咽喉乾いたな、と残っていたお茶を仲良く飲んだ後、差し出した腕にがチョコンと頭を乗せた。
 ちなみに、腕枕なんて事をするのも初めてだ。
 狭苦しいシングルベッドを心地良いと感じるのも。
 色々と初めてだらけで、それは新鮮で少し照れくさくて、けれど最高に幸せな感覚。

「なぁ」
「うん?」
「わかってくれた?やりたい訳とちゃうて意味」
「うん、わかっ……あー、あかん、嬉しいて……」
 ポロッとこぼれた雫が、続けて二つ、三つとの眦から滑り落ちた。
 抱き寄せて頭を撫でていると、やがて落ち着いたらしい声がした。
「最初から最後までずっとな、ずうっと、好きや、可愛いて、侑の全部で言われとるみたいで、ほんまにほんまに幸せな気持ちやった。あ、今もやけど。……ありがとう」
「うん、俺もや。お前の気持ち、ちゃんと伝わって来たで。ほんまにありがとうな」

「……けど一つだけ、悔しい」
「あん?何が?」
「私、侑が初めてだったら良かった」
「いやいや、初めてやんか。俺も、お前も」
「え?」
「惚れた相手とせな、ほんまもんのセックスやない。……そう思わん?」
「思うぅ~……」
 再び泣き出してしまったの頭を撫でて、俺は笑った。
「ヤバいな。今日の俺、めっちゃ女泣かせやんな?」
「っ……ほんまやで……もぉ……」
「よしよし。胸は貸したるから、気ぃ済むまで泣け」



 ぼんやりとしたオレンジ色の常夜灯の下、が両手で顔を覆ったのは、二回目が終わって後始末が済んでからの事だった。
 また泣いちゃったかな、と様子を窺うと、どうやらそうではないらしい。
「どした?」
「……恥ずかしい」
 触れ合っていない部分も、見せ合っていない部分も、一つ残らずなくなった、そんなタイミングでのこのセリフに、俺は「今さらか」とツッコんだ。

「まだどっか触っとらんトコ残っとる?ちゅーしとらんトコ残っとる?」
「そういう意味ちゃう」
「ほんなら何が恥ずかしいねん。ほれ、顔見せてみぃ」
 両手を無理やり引き剥がすと、今度はベッタリ抱き付いてきて、顔を見せないように頑張っている。
「無理。見んといて。無理」
「なんでや」

 こういう態度を取られると、苛めたい気分がムクムクと高まってしまう。
 どうにかして顔を見ようとする俺と、それに抵抗するの攻防戦がしばらく続いたが、最後は力づくで勝利を奪い取った。
 顎を掴んでグイと上向かせたら、は「ドS!あほ!」と言葉で最後の悪あがきをした。
「期待は裏切らんて言うたやろ?」
 にっこり笑ってそう言うと、一瞬恨めしそうに正面から睨んできた目がすぐに伏せられた。

「もう堪忍……」
「アカン。何がそんなに恥ずかしいんか白状するまで許したらん」
「だって……」
「はいはい。だって、何?」
「……一度も気持ちいいと思た事ない、て……どの口が言う、て思わへん?」
 消え入りそうな声でそう言われた次の瞬間、俺は盛大に噴き出した。

「なんで笑うん!あほー!」
 結構な力で胸を叩かれて、それでも止まらない笑いを引きずったまま抱きすくめると、最初ジタバタしていた体はすぐに大人しくなった。こういう素直さが心底可愛いと思う。
「ゴメンて。悪気はないねん」
 笑いが収まってから詫びると、はムスッとしつつも「ええけど」と答えた。

「あんま可愛い事言うから、笑ってもうた。どの口が言う、なんて俺が思う訳ないやん」
「ほんま?」
「思わん思わん。そんなん、今までの男が下手糞やっただけやろがい」
「そういう事なんかなぁ?」
「むしろそれ以外あり得へん。お前、感度エエもん」
「そうなん?」
「フッフ。詳し~く説明したろか?」
「いっ!?いえ、遠慮しときます!」
 ブルブルと首を振っているのを見てまた笑うと、今度はペシッと軽い音が胸元で鳴った。



 明け方、これは完璧に欲情に引きずられた、半分寝ぼけたまま致してしまった三回目の後、死んだように寝入った。
 まさに泥のような眠り。それを外部から無理やり覚まされかけて、俺はぼやけた意識の底で何度も抵抗した。
 名前を呼ばれて、肩を揺すられて、「なんや、もう朝ぁ?」とブツブツ言いながら重たい目蓋を持ち上げると、ベッドサイドからこちらを見ているとバチンと目が合った。

「おはよう」
「あー……せやった……せやったわ……おはようさん」
 ん、と目覚めのキス。毎朝こうだといいのに。
「そろそろ朝ご飯出来るで。補習て何時から?」
「うん……8時半」
「ほな、そろそろ起きなあかんやん」
「んー……うんー」
「ほら、起きて」
「もっかいちゅーしてくれたら起きる……」

 ふ、と笑って寄せて来た頬に手を添えて、二度、三度、と繰り返してから舌を入れたら、少し驚いたらしかったけれど、ちゃんと応えてくれた。
「目、覚めた?」
「だいぶ」
 どうにか起き上がって伸びをして、ベッドから降りたところで「下で待ってるね」とが部屋を出て行った。
 残った俺は欠伸を繰り返しながらワイシャツとズボンを身に着け、リビングに向かった。

 階下に降りると、台所から魚が焼ける香ばしい匂いが漂って来た。
 すんすん鼻をうごめかしつつ洗面所に行き、鏡に映る締まらない顔を見ながら歯を磨く。しぶとく残っていた眠気も、口を漱ぐ頃にはどうにか抜けた。
 顔も洗ってようやくサッパリした心持ちになり、片付けた歯ブラシセットを片手にのそりと台所に向かう。
 玉子焼きを作っていたの腰に背後から腕を回し、首筋に吸い付いたらクスクスと笑う声が響いた。

「そんなんしとって、焦げてもうても知らんよ」
「エヘヘ。美味そうやな~」
「うん、上手に焼けた。お弁当もあるから、お昼に食べてね」
「ほんまに!?ありがとう!昼飯まで、すまんなぁ」
「ううん。おにぎりと、あとはほとんど昨夜の残り物やし、入れ物も使い捨てで悪いけど。……ちょおごめん、包丁使うから離れて」
 はーい、と素直に言われた通りにして、「手伝う事ない?」と訊ねた。

 結局俺がした事と言えば皿を出して並べたくらいで、小学生かと自分でツッコみたくなった。家事はやらないと覚えない、とが言っていたのを思い出す。
 “飯”を一生の仕事にすると決めた治は、元々機会さえあれば母親の手伝いをしていて、簡単な物ならパパっと手際よく作るほどの腕前だ。
 俺も負けていられない。高校を卒業するまでには、一通りの料理を覚えよう、と心に決めた。
 食後の挨拶をして、お茶を啜って、せめて後片付けくらいはと申し出たが、「遅刻したらあかんから、気持ちだけうとく」と笑顔で断られた。



 ネクタイを締めてジャケットを着るのが面倒くさい。補習さえなかったら、ジャージで済むのに。
 昨日がくれたマフラーを巻き、スニーカーを履いて手袋を嵌めたら準備完了だ。
 框に立っていても、まだ俺よりは少し低い位置にあるの頭を一つ撫で、切ないくらいの名残惜しさを込めてぎゅうっと抱きしめた。

「嫌やぁ。行きたないー」
「うん。離れたないね」
「補習サボってまうか」
「それはあかん。春高行けへんで」
「わかっとる」

 繰り返す甘ったるいキス、の匂い、昨夜の、明け方の、様々なものを分け合った記憶。
 次はいつ、とねだる心がいっそうの別れがたさを招く。
「あかんよ、バスに遅れてまう」
 やんわりと胸を押されて、思わず未練のため息が漏れた。

「しゃーない、行って来るわ」
「補習頑張ってね。部活も」
「うん。色々、ありがとうな」
「私こそや。ほんまにありがとう。……気を付けて、行ってらっしゃい」
「行って来ますー!またな!」
「またね」
 ドアの隙間が細くなっていって、完全に閉まってしまうまで、はずっと手を振ってくれていた。

 会おうと思えばまたいつだって、何なら今日の夜だって会える。でも。
 一度知ってしまえば決してその味を忘れられない、セックスという厄介な麻薬。
 まして極上の、至福のそれを知った今となっては。
 早くも感じた強烈な飢えを振り切るように、俺はバス停に向かって走り出した。

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