05

 店の外に出ると、雨は止んでいなかったものの、日が暮れるにはまだまだ遠い明るさだった。
 来た時と同じに一つ傘の下でくっついて歩きながら、次どこ行こか、と話し合う。ああでもないこうでもない、と案を出し合っているうちに、クイと袖を引っ張られた。

「ん?なに?」
「侑君に、一つお願いがあります」
「どしたん、改まって。言うてみ」
「苗字やのうて、名前で呼んで欲しい。仲ええ子は、みんなそうなんよ」
「わかった。ほんなら、俺もお願いしよかな」
「うん、なに?」
「クンいらん。侑って呼んでや」
「あ、ハイ。……あ、あ、……えー……うわ、なんやめっちゃ恥ずかしい。なんでやろ」
「はよ」
「……あ、つむ」
「30点」
「赤点やん!厳しい!……あかん、こっち見んといて。そしたら呼べそうな気ぃする」

 はいはい、と前を向くと、結構な間を置いてから、小さな声で「侑」と呼ばれた。
「なんや、
 そう言いながら顔を覗き込んでやれば、湯気が出そうなくらい真っ赤になっていて、思い切り笑ってしまった俺は、ぺしっと腕を叩かれたのだった。



 どこで遊ぼうかと話し合ってはみても、悲しいかな、高校生のお小遣いには限りがある。
 うちの高校は基本的にバイト禁止だから、生徒の経済事情はとても厳しい。その上、この雨では選択肢がさらに狭まる。
 ちょお待っとってな、と立ち止まった俺は、暫しスマホをいじくった。

「……良かったら、うちぇへん?オカンが晩飯一緒にどや、言うとる」
「へ?え?……ハァー!?」
「彼女連れてってええかーて聞いたら、晩ご飯誘いなさい、やって」
 ほれ、とトーク画面を見せると、はブンブンと首を振った。

「あかん、そんな、初めてお邪魔するのにご飯までごちそうになるとか、図々しすぎや」
「ええやん、誘っとんのこっちやねんから。それに俺、明日からまた部活漬けやで?こんなチャンスそうそうないで?」
「そ、それはそうやけど……いや、あかんあかん、ウチの親にバレたら叱られてまう」
「んー……よし、せやったら俺が許可もろたる。のオカンももう帰って来とるんやろ?」
「え?あ、うん、え?」
「電話して。俺が話するから」
「ええええ」
「はよ」

 何度か押し問答をした後、が折れた。
 の母親も他人相手だと強くは出られなかったのか、それとも俺の調子の良さに流されたのか、最後には笑って許可をしてくれた。
 ただし、これだけはきつく言い付けられたからと言って、はうちの近くでコンビニに立ち寄り、結構いい値段のプリンを5個も手土産に買った。
 律儀やなぁ、と笑うと、「こういうんはちゃんとせんと」と生真面目な顔で返された。

「ええ子やね」
 よしよし、と頭を撫でると、のほっぺたが見る間に赤くなった。
「侑君、」
「誰やって?」
「あっ……侑、は」
「うん、俺がなに?」
「いろいろ、ずるい。心臓に悪いわ」
「ほーん?せやったら、心臓ぶっ壊すぐらい頑張らなあかんな」
「え」

「今までの元カレと一緒にされたないもん。絶対惚れさせたるから覚悟しとき」
 また真っ赤になるかな、とニヤニヤしながら顔を覗き込むと、予想外。
 はニッと笑って、ハッキリした口調で言った。
「私も負けへんよ。惚れるってこういう事やったんかぁ、て思わせられるように頑張るからね!」
「ええな、それ。楽しみにしとく」



 8時過ぎにを家まで送り届けて帰宅した後は、さっさと風呂を済ませた。
 母親にの事であれこれ突っ込まれると鬱陶しいので、風呂上りは速やかに2階へ逃げて、治とゲームをしながらゴロゴロした。
 明日からはまた朝練がある。暗黙の了解で10時にはゲームの電源を落として歯を磨き、寝る前の軽いストレッチタイム開始。

 並んで足の筋を伸ばしていると、治が「なぁ」と話しかけて来た。
「なんや」
って、むっちゃ美味そうに飯食うな」
「お前ほどやないけどな」
「ええ奴やん」
「いやいやいや、美味そうに飯食うたらエエ奴て、お前の思考回路どないなっとんねん」
 半ば呆れてツッコむと、治は真顔をこっちに向けた。
「飯を美味そうに食う奴に悪い奴はおらん。が飯食うところなんて、去年は気にした事なかったから知らんかったわ」

「……手ぇ出すなよ?」
 釘を刺した俺に、治は犬のウンコでも踏んだみたいなしかめっ面をした。
「あほか。……オカン喜んどったで。しっかりしとるし可愛いし素直やし、侑にしてはめちゃめちゃ上出来やーってホクホクしとった」
「俺にしては、ってなんやねん。一言多いっちゅうねんクソババア」
「安心したんやろ。お前が女連れて来たん、初めてやったからな」
「そらまぁ……せやな」
 を紹介した時の母親の喜色満面の顔を思い出したら、失礼な発言も許してやるべきか、という気持ちになった。

 その後、ルーティンに従ってひとしきり体を動かして、最後に腕をぐるぐる回していた時、横から聞こえた言葉に最初は耳を疑った。
「俺もちょっと安心した」
 ――何真面目に言うとんねん。
 コイツにこんな事を言われると、死ぬほど照れくさい。かんべんしてもらいたい。
 なんやお前、悪いモンでも食ったんか、と返そうとしたけれど、照れ隠しなのがバレバレな気がして呑み込んだ。

「そうか」
 平静を装って無難な言葉を選んだものの、少し声が上擦ってしまった。いつもならすかさずツッコんでくるはずの治は、そこについてさえもスルーした。
「今度は続くとええな。仲良うせぇや」
 そう言って、先にストレッチを終えた治はノソノソとベッドに上がった。
 いよいよどう返せばいいやら、完全に言葉に詰まった俺は、「おん」とさして意味のない半端な返事をする事しか出来なかった。
 なんだか全面的に治に負けたような気がして、悔しかった。



 ベッドに入ってからしばらくの間、ぼんやりと暗い天井を眺めた。
 物心つく頃、いやおそらくその前から、何かにつけ張り合ってきた同じ顔の片割れ。
 絶対に負けたくない、負けない、と思う裏側で、コイツには勝てないと思っている部分がたくさんある。

 物事を一歩引いた場所から見られる視野の広さとか。
 周りを許して受け入れる優しさとか。
 穏やかで落ち着いた物腰とか。
 他人を心から愛するというのが、どういう事なのかをよく知っているところとか。

 治には、中2の夏から去年の秋まで付き合っていた女がいた。一つ年上の、可愛いというより美人という表現が似合う、大人びた雰囲気の人だった。
 一々彼女と何があったとか報告し合ったりはしないから、細かい事は知らない。
 ただ、本気で好きなんだろうなという事は傍目にも十分わかった。
 たまには、喧嘩でもしたのか落ち込んでいる事もあったが、彼女とメールしたり電話したりする時には、心底幸せそうな顔をしていた。

 別れた頃は(それは後から把握した事だけど)、ベッドの中で声を押し殺して泣いていて、翌朝には目を真っ赤に腫らしていた。
 そんな状態にもかかわらずバレーに一切影響が出なかったのは、考えるまでもなく治の意地で、プライドで、だからこそ見ているこっちまでキツかった。
 一人で存分に泣ける時間を作ってやるために、遅くまで居間のソファに根を生やして、面白くもないTVをボケッと眺めていた俺に何も言わなかったところをみると、両親も治のつらい状態は把握していたに違いない。

 俺は治が羨ましかった。
 そこまで本気で他人を想える治が、妬ましかった。
 治がしっかりと掴んでいる形のない物が、俺も欲しかった。

 かなわんなぁと小さく小さく呟いて寝返りを打って、目を閉じた。
 でも、俺も今きっと掴みかけている。
 差し出された物を受け取るのではなく、自分から手を伸ばしたいと思った。
 先の事なんてわからないけれど、走りたいと思った。
 初めての道を、と二人で。

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