07

 しっかり送り届けるんやで、悪さしたらあかんで、と母親に嫌な感じで念を押され、「わかっとるわ!」と返してから外に出た。
 の家までは俺の足で10分程度。の歩調に合わせると15分くらい。
 意外にも近かった事に最初は驚いた。もし俺が公立中学に行っていたらそこで出会っていたのかもしれない思うと、少し惜しい気がした。

 小雨の中を、今日も一つ傘の下でぺったりくっ付いて歩く。
 暑苦しいはずが、気にならないどころか嬉しい。他の相手ならイラつく事も、だと全然違う。我ながら現金だ。

「今日は二人とも、よう頑張ったねぇ」
 そう言われて、自分の眉間にシワが寄るのがわかった。
の事は褒めんでええ」
「なんでやの。治君かて頑張ってたやん。慣れない勉強すんの、大変だったやろ?」
「うん。めっちゃ疲れた」
「侑も治君も元々の頭の出来は悪ないんやから、その気になったら成績もかなり上がる思うで」
「嫌や。そんな時間あったらバレーする」
「言うと思った。ほんでも、それが侑のええところやね」

「……なぁ」
「うん?」
「俺ほんまにバレーばっかりやけど、腹立つとか寂しいとか、いっこも思わへんの?」
 時折感じていた、そんな不安を口にしてみた。大丈夫そうに見えても、の心の中まで見える訳ではないし、元カノみたいな形になるのは絶対に避けたい。

 は不思議そうな顔をした。
「思わへんよ?疲れとるやろに、毎日連絡くれるだけでもめっちゃ嬉しいもん」
「出来ん日もあるし、一言で終わる時もあるやんか」
「ええんよ。クタクタなんはわかっとるから」
「ほんまにそれでええんか」
「うん。だって、バレーしてる時の侑、最高にカッコええもん。自分の全部懸けられるくらい、夢中になれる何かがあるってスゴイ事やんか。逆に……」
 そこでの言葉が途切れた。

「……逆に、なに?」
「あ、うん……逆に、私みたいな何もない女、飽きられへんかなぁて。……侑みたいに夢中になれる事もないし、勉強も運動も半端やし……私のどこがええんやろ、とか」
「なんや、また自信喪失しとるんか」
「……そうかも」

 ぽつぽつと、雨が傘を打つ音がする。
「お前、さっき俺がスゴイ言うたな」
「うん」
「ほんなら、そのスゴイ俺が好きなお前もスゴイんちゃうか」
「え、そ、え……うーん?そうなん?」
「お前はただ、おってくれたらええねん。そんで、とったらええねん。……そんだけでええて、俺に思わせるお前はスゴイんちゃうの?」

「……あかん」
「何があかんのや」
「嬉しいて、泣きそう」
 泣きそう、と言っているくせに、実際声も震えているくせに、そこには笑いも混ざっていて。
 立ち止まって抱きしめようとしたら、「ここ道端やで」と軽く抗議された。
「誰も歩いとらん」
 弱々しい抵抗を一言で封じて胸に抱き込むと、グスッと鼻を啜る音がした。続いて、小さな声が聞こえた。

「……私な、怖いんよ」
「何が?」
「飽きられへんかなとか、私なんかのどこがええんやろとか、こんな不安に思た事なんて今までなかってんもん」
「そんなん、俺もや」
「え?」
「バレーばっかりで嫌やー、さよか、ほなもうええわ、ってのが今までのパターンやってんけど、お前とそうなるんは絶対嫌や。せやからさっき聞いた」
「侑も不安やったん?」
「うん。秒で消してもろたけどな」
「そっか……」

 きゅう、ともう一度抱きしめると、も精一杯らしい力で返して来た。
「あほやな、お前」
「うん。……ほんまにあほやね。一人で勝手に考えすぎとった」
「まだ怖いか?」
「ううん。もう平気」

 歩いた事がない道だから、一つ一つ目印を付けていこう。
 言葉にする事で、互いの意識の中に刻んで。

「……好きや」
「うん。……私も、好き。……ありがとう」
 重ねた唇から、絡めた舌先から、流れ込んでくる柔らかな感情が嬉しい。
 同じように感じ取って欲しいと願いながら、両腕に力を込めた。



 期末テストの終了後は、校内全体の空気が緩む。
 のおかげで、俺も治も今回は全科目でギリギリ赤点を免れた。テストのたびに毎回心配をかけているチームメイトや先輩には、奇跡が起きた!と騒がれた。
 いつも通りの生活に戻り、あとはインハイ本番に臨むだけ。

 朝練が済んだらシャワールームで汗を流し、制服に着替え、渡り廊下を通って各々の教室に向かう。
 今日も暑くなりそうやなぁ、朝のうちはまだええけどなぁ、などとどうでもいい会話をチームメイトと交わして校舎に足を踏み入れたところで、「侑先輩」と横から呼ばれた。

 顔をそちらに向けると、一年生の女子二人が緊張した面持ちで立っている。それだけでこれから何が起きるかわかってしまって、うわっメンドくっさ!と心の声が漏れそうになった。
 と付き合い始めてから、この手の事はすっかりなくなって安心していたのに。
「何?」
「あの、ちょっとええですか?」
 仕方がない。さっさと終わらせるのが吉だ、と諦めと共に頷いた。

 チームメイトも慣れたもので、無言でぞろぞろと立ち去って行く。それを見計らって、俺に声を掛けた子が後ろにいた子の背中を俺の方へと押しやった。
 真っ赤になったその子は、膝が笑っている。顔つきはまさに、決死の覚悟といった感じ。

「あの、侑先輩、私、先輩の事ずっと見てて!それで、あのっ、ずっと、好きです!」
「そらどうも。けど俺、彼女おんねん」
 間髪入れずにそう言うと、蚊の鳴くような声が「はい」と言った。
「知ってます。彼女さんの事は、知ってます。……でも、あの、黙っとったら、いつまでも終わりに出来ひん思て、それで、あの……ごめんなさい」

 勝手な言い分だな、と思った。
 少し前の俺だったら、それをそのまま口にしていた。
 自分さえスッキリしたらそれでええんか、迷惑や、と吐き捨てたと思う。

 でも今は、ちょっとだけわかる。
 好きだからこそ、俺とが互いに小さな不安を感じていたように、好きだから辛いとか苦しいとか感じる時もあるのかもしれないと、想像は出来るようになった。
 この子は多分、その苦しさを一人で抱えておけなくなったんだろう。

「謝らんでもええて。……もう行ってもええか?」
「は、はい!聞いてくれて、ありがとうございました」
 最敬礼をした後輩に軽く頷いてから歩き出すと、後ろから泣き声が聞こえて来た。
 以前なら喧しいとしか思わなかったであろうそれに対しても、いくらかは受け入れられるような気がした。
 けれどやっぱり、こんな時いつも感じる鬱陶しいような煩わしいような、べたついた感覚が沈殿していくのは止められなかった。



 教室に向かう途中、去年クラスメートだった女たちのグループと出くわした。どの組にも必ずいる、化粧も髪も気合入れまくりの連中。
 うるさいし化粧と香水の匂いが鼻に付くが、特に不愉快な事はして来ない、ただの顔見知りだ。

 おはよー侑、今日もイイ男やね、と絡まれて、当たり前や俺やぞ、と返す。
「自信満々もいつも通りやな!」
 キャハハハ、と甲高い笑い声が上がって、「うっさいわ」と顔をしかめてその場を離れようとしたら、茶髪の一人に「ちょちょ」と腕を掴まれた。

「なんや、まだ話あるんか」
「本題はこれからやねん。……侑、一年に告られんかった?背こんくらいで、髪ここクルクルッて巻いてる」
「は?なんで知っとんねん」
「あー、やっぱり。……あの子、同中の後輩でな。昨日マクドで会って相談されてん。なんやエライ思い詰めとってなぁ」
 振られるとわかっていても言わずにいられなかった、その気持ちだけはわかってやってくれ、といつになく神妙な様子で言われた。

 否応なしに背負わされる他人の気持ちは、何度経験してもその重さに慣れる事が出来ない。
 悪意はまだいい。ねじ伏せる事も切り捨てる事も比較的簡単だ。
 でも好意は違う。どうやってもどこかに残滓がへばり付く。

 わかったわかった、モテる男はつらいわぁ、と嘯いて、また沸き上がった笑い声の集団に手を振ってその場を離れた。

 軽い憂鬱を味わいながら歩いていくと、少し先に女友達と並んで喋っているの後ろ姿が見えた。
 走るまでもない距離、足を速めて追い付いて、のしかかるようにして抱き付きながら「おはよ」と声を掛けたら、ビックリ顔で振り向いたは「おはよう」と言ってフワッと笑った。
 
 その顔を見たら、今の今まで感じていた心の重さがパッと消え失せた。
 笑顔一つでこうもあっさり、他の誰にも、俺自身にさえも出来ない事をやってのける。
 ――ほらな。お前はやっぱり、スゴイ奴やんか。

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