インハイの結果は2位に終わり、俺たちバレー部は残留を決めた3年生と共に春高へ向けて即座に再スタートを切った。過ぎた事に捕らわれている暇はない。
とは言え、連日の猛暑で体力を削り取られる夏休みの間、運動部は週一で休養日を設ける事が義務付けられていて、バレー部のそれは金曜日と決まっている。
せっかくの休み、今日はクーラーの効いた部屋でとあわよくば、と思っていたのに。
「手が止まってるで。わからんトコは聞いてね」
「……休憩」
「ん?」
「休憩したいー!疲れたー!もう嫌やー!アイス食べたいー!」
「何言うてんの。さっき休憩してからまだ15分しか経ってへんよ?次は25分後や」
ピシャリと言葉で叩かれて、俺はしおしおと項垂れた。
「は鬼や……」
「はい、鬼で結構です。せやからちゃっちゃと問題解いてな」
夏休みの課題に全く手を付けていない事をうっかり漏らしてしまったせいで、俺は治と共にセンセイの監督の下、午前中からプリントとにらめっこをする羽目に陥っていた。
「こんなん、夏休みとちゃう。休み、て付いてんのになんで休んだらアカンのや。なんでこないなモンやらなアカンのや。おかしいやろ」
椅子の背にぐってりと凭れて文句を垂れ流していると、が優しく言う声が聞こえた。
「そこまでやりたないなら、やらんでもええよ。無理は良くないもんねぇ」
マジか、と思いながらガバッと体を起こした次の瞬間、俺は凍り付いた。
ニコニコ笑っているの顔が怖い。北さん並みに怖い。
ゴクリ、と唾を飲み込んだ俺に、はニコニコ顔のまま言った。
「侑は一人でゆっくりしとったらええよ。私は治君と二人で課題やるから」
「え、そ、いや、」
そのタイミングで、治が「、問4教えて」と言った。絶対ワザとやコイツ。後でしばく。
「はーい。……ああ、これ公式がちゃうよ治君。こっち使うてやってみて」
「おぉ、こっちか。わかった、ありがとう」
「ちょお!俺だけ置き去りにすんなや!やる!ちゃんとやるて!やればええんやろ!」
課題に再び向き合うべくシャーペンを握り直したら、肩に小さな手が置かれた。
「うん、頑張ろうね。終わったらお土産に買うてきたアイス、一緒に食べよ」
鼻先を掠めたの匂いと、優しい言葉と、今度は本物の笑顔。
それだけでやる気を取り戻してニヤついていると、治がぼそりと「単細胞」と言うのが聞こえた。うっさいわ、と返すだけで我慢した俺は、褒められてもいいと思う。
数日後の部活終了後、バスに揺られながらの帰り道でとLINEしていると、前の席でイチャついているリア充の会話が耳に飛び込んできた。
土曜8時、花火大会、浴衣、というキーワードが頭の中で回る。
――浴衣か~。ええなぁ、可愛いやろなぁ。見たいなぁ。
8時なら部活の後でも間に合いそうだ。に誘いのメッセージを送ると、すぐに「行きたい!」と返信が来た。
浴衣着て欲しい、というリクエストにもOKしてもらえて、待ち合わせ場所と時間を決めてから上機嫌でアプリを閉じると、右肩がのっしりと重たくなった。
確認するまでもなく、治が肩先で平和な寝息を立てている。
のほほんとした寝顔を見ていたら怒る気も失せて、起こさないでおいてやる事にした。
と付き合うまでは、こうして寝てしまうのは大抵俺の方で、起こすのは治の役目だった。
でも今は、帰途のバスの中はとLINEで繋がる大切な時間で、よほど疲れている時を除いて寝る事はなくなった。
朝は相変わらず、治に起こしてもらってばかりだけれど。
約束の土曜日、7時ちょっと前に家に帰り着いて、大急ぎで飯をかき込み、風呂はシャワーで済ませてバス停へと急いだ。
予想はしていたものの、会場最寄りの駅前は大混雑。それでなくても暑いのに、人いきれですごい熱気だ。
待ち合わせ場所のバスターミナル前でキョロキョロしていたら、「侑!」と耳慣れた声が聞こえた。
そっちに顔を向けると、人混みを縫うようにしてが駆け寄って来るのが見えた。
「ごめん!遅れてしもた?」
「いや、今来たとこや」
「良かったぁ。早めに着いとったんやけど、人が多くてモタついてもうた」
「……ええなあ」
「うん?」
「浴衣、むっちゃ可愛い。よう似合うとる」
「ほんま?えへへ、嬉しい。ありがとう」
いつもと違う結い上げた髪と、普段目にする事のない白々としたうなじが色っぽい。
あまりまじまじ見ていると下心で頭がいっぱいになりそうだったから、さり気なく視線を逸らして、その代わりに手を繋いだ。
眩い火花が夜空を焦がし、それを追いかけてドオン、と腹の底に響く音が鳴る。
前に花火大会に来たのなんて、小学生の時が最後だ。
近くで見る打ち上げ花火は迫力満点で、綺麗で、けれど儚くて、寂しいような懐かしいような、不思議な気持ちになった。
30分ほど続いた光の饗宴は、最後を飾るスターマインの乱舞で最高潮に達した。辺りから、どよめきと拍手が自然に沸き起こる。
チラと隣を見下ろすと、こちらを見ていたらしいと目が合った。繋いだ手を握り直すと、はにこりと笑って空へと視線を戻した。
帰り道は慣れない服装のに合わせて、ゆっくりゆっくり歩いた。
その速度が心地良く感じるのも、家に着いてしまうのが惜しいと感じるのも、理由は一つだけ。
もっと一緒にいたい。
帰したくない、帰りたくない。
夜の住宅街はしんと静まり返っていて、の下駄の音だけが響く。
繋いだ手は互いに汗ばんでいて、でもそれすらも安心出来る熱で。
「ごめんね」
唐突に響いた謝罪の言葉の意味がわからず、振り向いた俺の顔には疑問符が浮かんでいたと思う。
「何が?」
「ノロノロしか歩けないん、悪いなぁ思て」
「浴衣着て欲しい言うたんは俺や。謝る事ない。それに、さっさと歩いたらすぐ着いてまうやんか。せやから、これくらいでちょうどええ」
ぴた、とが立ち止まった。
「……まだ帰りたない、て言うてええの?」
「ええに決まっとる」
嬉しい、と言って小さく笑った声をすぐに塞いだ。
足りない。もっと。
二人の時間も、キスも、何もかも、全部足りない。
「あかん、誰か来たら……」
「誰も来ぇへん」
止められない。
濡れた唇が柔らかくて、甘くて、気持ち良くて、離れたくなくて。
「あかんよ、もう……」
「……わかっとる」
突き上げる衝動を無理やり抑え込んだら、大声で喚き散らしたくなった。それもこらえて、の肩に顎を乗せてぐっと奥歯を噛み締めていると、胸元で声がした。
「なんでやろなぁ。……嬉しいて、幸せで、それやのに苦しいて、泣きたなる。侑と二人でおると、いっつもこうや」
「……うん」
「これがほんまに好きって事なんかは、まだわからへんけど……今まで付き合うた誰より、侑が好き。一番、好き」
「ちょお、待て。……お前、俺を殺しにかかっとるやろ」
「え?」
「さっきから死にかけとるぞ、俺の理性」
「え、いや、ごめ、あの、」
慌てて腕の中から抜け出そうとジタバタした体を、思い切り抱きしめて閉じ込めた。
「お前も今までの女とはちゃう。一番好きや。俺も今はそれしかわからへんけどな」
「……ありがとう。嬉しい」
ちょっと遠回りしよか、と声を掛けると、が元気よく「うん!」と答えた。
子供か!とツッコんで二人して笑ったおかげで、死にかけの理性が無事に生き延びた。
その後は至って健全にお手々繋いでブラブラ歩いて、途中のコンビニで買ったアイスを食べながら帰った。
それすらも幸せだなとか、楽しいとか、嬉しいとか。
わからないと言いながら、俺もも多分もうわかっている。
お互いの“好き”の意味。